使命

 

 

船がレームゴープに着いて、ナタンは深い眠りから覚めた。船から降りて、バスに乗って20kmほど先にあるトラットという町に向かった。まずホテルを探して、それから町をぶらぶら歩いた。ナタンは最近起きた出来事のせいで疲れていた。同じ通りを三度歩いていた。最初の二度は、通りには人が少なかったが、三度目は、ある家の前に警察とやじ馬の集団が集まっていた。ナタンは好奇心でその輪に入って、何があったのかと訊いてみた。婦人が英語で、男が自殺しているのが見つかったのだ、と言った。ナタンは、この通りをもう三回も通っていて、この場面に出くわしたのは偶然のことではないだろうと考えた。彼はもっと詳しい状況を知るために、彼女と中に入りたいと言った。二人は家の中に入った。二人の警察官が、亡くなった人に関する書類を見ていた。ナタンは自分もそれを見ていいかと頼み、婦人が警察官にそれを訳して伝えた。彼らに異論はなかった。その書類によると、男はカンボジア人で、プノンペンに住んでいるが、ここ数ヶ月はトラットに居た。それから、カンボジア宛の封筒に入っているクメール語で書かれた手紙も見つかった。ナタンはその中身を知りたいと思った。婦人はクメール語が分からなかったが、警察官の一人がクメール語を読むことができた。彼ははじめ手紙を黙読し、それからタイ語で大体の内容を伝えた。婦人がそれをナタンに英語にして伝えた。亡くなった彼の息子に宛てた遺書だった。亡くなった人は自分が息子に見捨てられたように感じていた。その時、封筒から一枚の写真が落ちた。警察官がそれを拾った。ナタンはそれを見たいと言った。それを見て、ナタンは心臓が止まるようだった。ナタンは手紙の宛名にある名前を読んでくれと言った。思った通りだった。その名前と写真に写っている自殺した人の息子は他でもない、ブリュッセルで同じクラスだった生徒の一人、Yシャオだった。ナタンは、次の目的地はカンボジアだと思った。警察官に、手紙のコピーを頼み、宛名に書いてある人には自分で届けると約束した。翌日、ナタンはバスに乗ってカンボジアとの国境まで行き、そこからマイクロバスでプノンペンへと向かった。ここはタイよりも貧しい人々が多いことはすぐに分かった。道路は舗装されておらず、乗り物もまるで今にも崩れるかのようだった。とりわけ、たくさんの子どもたちが物乞いをしている様子には胸を打たれた。ナタンはタクシーに乗り、運転手に封筒のアドレスを見せた。タクシーはビジネス街にあるオフィスビルで止まった。ナタンは驚いた。普通の家を想像していたのだが、タクシーの運転手は間違いなくここだと言った。ナタンはビルに入り、受付でYシャオは居ますかと訊ねた。係の女性はアポイントメントをとっているか訊ねた。ナタンは、いえ、でも彼の父親に関してとても大切な知らせがあるのです、と答えた。受付係は電話を掛けた。そしてナタンに、Yシャオはカンポットにある別荘に出掛けていますと告げた。プノンペンから来るまで数時間のところにある海岸の町だ。ナタンは、Yシャオはいつ帰ってくるのか訊ねた。受付係は、それは彼にしかわかりません、彼は社長なのですからと答えた。その次の日、ナタンは出発し、夕方になる頃にはカンポットに着いた。あちこち訊ねているうちに、ナタンはYシャオがビジネスで成功していることがわかった。ほとんどの人が彼の別荘の場所を知っていた。ナタンはすぐに別荘を見つけることができた。植民地様式の立派な家だった。ドアベルを鳴らすと、家政婦が出てきて扉を開けた。Yシャオは居ますかと訊ねた。家政婦はナタンを中に通した。彼女は、どなた様ですか、ご用件は何ですか、と訊ねてきた。ナタンは、僕は彼の友人で、彼に個人的に伝えたいことがあって来ました、と言った。家政婦は一度奥に行ったあと、しばらくしてナタンのところに戻ってきた。扉を開けて、ナタンは家の中に通された。ナタンは大きな部屋に入った。そこにはスーツを着たYシャオがいた。Yシャオはナタンに気づいて声を上げた。

「驚いたよ!君に会えるなんて!」

ナタンの頭の中には一つの問いだけがあった。どのタイミングでYシャオに彼の父親が亡くなったことを告げれば良いだろうか?

「どうやってここだとわかったんだい?」Yシャオが訊ねた。

「それは大して重要なことじゃないよ」ナタンが答えた。「それより大事なのは、僕たちの道がまた交わった、その理由だ」

「昔と変わらず思慮深いね」

Yシャオは大きなソファに座り、ナタンにその横に座るように言った。それから家政婦にコーヒーを頼んだ。

「人生はときどき奇妙なものさ。ほんの何週間か前に地中海にクルージングに行ったんだ。ギリシャで誰に会ったと思う?ラウラだったんだ!彼女、ギリシャで一生の恋人に出会ったと言ってたよ…君のこともどうしてるかって言ってたな」

「良かったね、彼女。彼女に会いに行きたいよ。君はどうしてた?」

「ビジネスがうまくいっているよ、ナタン!」

彼は腕を伸ばし、部屋に飾ってあるボードの方を指差した。そこにはこう書いてあった。本当の人生を生きるには、受け身で満足してはいけない。企てなければならない!

「海外のパートナーと一緒に、僕はいくつかビルを資産として持てたんだ。それに、大きな不動産の案件にかかわる株式も持っている。最初何もないところから始まって、自分の成し遂げたことを誇りに思うよ」

「君の目指すものは何?」

「まだまだビジネスが成長しているところだよ。数年後には僕はこの街でも有力な不動産エージェントになっているよ」

ナタンは何も言わずにYシャオを見ていた。そしてこう訊ねた。

「Yシャオ、君のプライベートの生活はどんな調子だい?」

「こないだ離婚したんだ…でも今は立ち直ったよ。どうして?」

「僕、君に同じようなことを今3回質問したんだよ」

ナタンはポケットから封筒を取り出しテーブルに置いた。Yシャオがそれを手に取った。

「父親からじゃないか!」Yシャオは驚いていた。

ナタンは何も言わず、Yシャオにその手紙を読ませた。最後まで読み終わると、Yシャオはうなだれてそのまましばらく何も言えなかった。

「僕は父親のことも考えずに人生を送ってきた、別れた妻も大事にしてこなかった。僕の関心事はただ経済的に成功することだけだった」

Yシャオは目に涙を浮かべていた。ナタンは同情して、彼のそばに寄った。

「どうして君がこの手紙を僕に持ってきてくれたんだい」

「むしろ『どうやってこの手紙が僕のところに来たんだろう』と思うのが正しいよ。ここまで来るにはたくさんの出来事が重なってきたんだ」

「すべてのことには理由があるって教えてくれたじゃないか。今日起こった事の理由は何だろう」

「僕たちは自分の感情をもっと理解するために、そして自分の中にある無尽蔵の泉をもう一度意識するために、再会したんだ」

「僕たちの中にある、内なる知識のこと?」

ナタンは頷いた。

「その泉を意識すればするほど、自分の考え方が広がって、自分の人生の目的が明らかになるんだ」

「でも君はいつもその泉を意識しているんじゃないのかい?」

「僕にも未知の感情があったんだ。君のおかげで、僕はその感情を知って成長できるんだ」

Yシャオは、昔ナタンと同じクラスだったときに、彼が悲しい感情をほとんどと言っていいほど見せることがなかったことを覚えていた。彼はこう訊ねた。

「君の『成長』とはどういうこと?」

「さっき進化のことを言っていたけど、この世で本当に大切なただ一つの進化というのは、社会的地位や財産とは関係がないんだ。僕の話しているのは、自分の感受性が成長することなんだ」

Yシャオはナタンの話を聞いてはっとした。ナタンは続けた。

「感受性は自分の深いところで持っている真実から成っている。それは宇宙の初めの計画を決して忘れることがなく、僕たちが初めに持っていた願望を思い出させてくれる」

その言葉はYシャオにとって聞き覚えのあることだった。ナタンの言わんとしていることはよくわかっていた。しかし、もうずいぶん長い間、誰も彼にそのことを思い出させてくれなかった。

「ナタン、僕たちが死んだあと、感受性はどうなるんだい?」

ナタンはYシャオが父親のことを考えてそう言っていることがわかっていた。

「僕たちの感受性は、死後生きている間に経験したことをまた蘇らせる。でも今度はその感受性に影響を受けた人々の視点で見えるんだ」

Yシャオは父の晩年のことを考えていた。

「父は僕のことを考えてとても悲しんでいたんだろうな…」

「落ち着いて。感受性が出来事を蘇らせる時、そこでは裁きも痛みも伴わないんだ」

「じゃあ感受性は何を運んでくるんだい?」

「進化するために必要な教訓さ」

「分かった気がする」

「まだまだだよ、でもそのうち分かるよ」ナタンはそう言った。タカラの見識ある言葉を思い出していた。「今は休んでリフレッシュすることが必要だよ」そう言いながら出発する準備をした。

「どこへ行くの?」

「街で泊まるんだ」

「ぜひうちに泊まりなよ」

ナタンは少し考えてこう言った。

「夜にまた戻ってくるよ」

ナタンはYシャオとハグをした。その日はそれから海岸に行き、遅い時間になって街に戻ってきた。Yシャオはナタンの泊まる部屋を案内した。ナタンは一つ頼みごとがあった。

「Yシャオ、僕と一緒に数日出掛けよう」

「数日?できないよ。やることがあるから」

「今は君の内なる世界だけが大切だよ」

Yシャオは考えて、こう訊ねた。

「どこにいくつもりなの?」

「一番印象深いところだよ」

ナタンはYシャオに答えるいとまを与えず、こう言った。

「もう寝よう。明日返事を教えてくれ」

次の日の朝、ナタンは朝食のためにテーブルについた。Yシャオが出てきて、こう言った。

「ナタン、あれから考えたよ。僕は自分の人生で変えたいところがある。そして君はその手助けをしてくれるのにふさわしい」

ナタンは昨夜の話が効いたことを知った。

「良かった。じゃあどこに行こうか」

「朝食のあと、シェムリアップの寺に行こう。車に乗って数日旅行するんだ。僕の祖国を旅してまわるのは車が一番の方法だよ」

「アンコールの寺院のことが書いてあるのを読んだことがあるよ。あれは良さそうだ」

「タ・プロームに連れて行こうと思ってるんだ。アンコールの寺院にある遺跡だよ。そこでは自然が想像を超える力を持っていて、印象深かったよ」

「ぜひ行ってみたいね」

朝食のあと、二人は北へ向かって出発した。プノンペンに少し立ち寄ったあと、山を越えてシェムリアップへと向かった。ナタンはこの国の貧困の様子を見ることができた。村々には多くの人々が住んでいて、村と村とはとても離れていた。家族たちは多くの子供たちを抱えて、とても小さく不衛生な家で生活していた。Yシャオはナタンに、何年も続いた戦争でどれほど国民が苦しんだかを話した。今この国は平和を迎えたが、地雷で多くの人々が亡くなったり怪我を負ったりしている。手足を切断した人がたくさんいた。それでもまだ十分ではないというかのように、その年の米は大凶作で、多くの家族が何ヶ月も貧困状態に陥っている。ナタンは彼らに同情の念を覚えた。Yシャオに何度か車を止めてもらい、その様子を見た。その村々でナタンが衝撃を受けたのは、貧困状態にもかかわらず彼らがとても優しくて親切なことだった。

「これほどの苦しみを目にして僕たちは何ができるというんだ」Yシャオが言った。

ナタンはその言葉の裏に罪の意識を感じ取った。

「Yシャオ、いまの言葉は奇跡を起こせる可能性があるよ」

Yシャオはナタンを見た。ナタンは寝ようとしていた。Yシャオは静かに今の会話のことを考えていた。シェムリアップに着くと、Yシャオはすぐ例の寺院に向かった。ナタンは、何か特別なことが起こりそうな予感がしていた。タ・プロームに着いたころには夜になっていた。太陽は沈み、オレンジ色に染まった素晴らしい景色が広がっていた。

「もう遅い時間だよ、また明日来ようよ」Yシャオが言った。観光客たちも帰っているところだった。そうしよう、と思ったそのとき、ナタンはいますぐ寺院に行かせようと背中を押すものを感じた。彼はYシャオに言った。

「いや、いま行かないと」

Yシャオは全く理解できなかった。しかし、ナタンがいつも自分の直観に従って行動していて、いまナタンに反対しても無駄だということを知っていた。車を停めて、懐中電灯を持って、ナタンとともに寺院へ向かった。ナタンは寺の中が迷路のような廊下になっていることに気がついた。すべてがつるやこけに覆われていた。つるが仏像や小塔のまわりを覆い、古い大木が寺院のまわりを囲んでいた。

「すばらしいね」Yシャオが言った。

ナタンは黙ったまま先に進んだ。中は暗かった。沈みかけていた太陽の光は、植物の厚い葉を通り抜けることができなかった。ほとんどの観光客がもう帰ってしまっていて、Yシャオは、昼間に戻ってきた方がいいとナタンに言った。

「懐中電灯を貸してくれ」ナタンが言った。「で、君は車に戻って」

Yシャオは答えることができなかった。ナタンは廊下の向こうに消えていた。Yシャオはナタンの不思議な行動には慣れていたが、やはりナタンが心配になった。車に戻ってもその気持ちは大きくなるばかりだった。ナタンは遺跡を歩いていた。どこに行こうとしているのかわからなかった。しばらくして、四方に円柱がある大きなホールに出た。円柱は木の根っこに押しやられていたが、同時に根っこに支えられてもいた。寺に入ったときから、ナタンは自然の破壊力に感銘を受けていた。しかし同時に、壁や廊下を今ある位置に保っているのは森だということもわかっていた。すべての複雑なものが地球と一緒に一体となっていた。その時、不思議な感情が湧いてきた。円柱と円柱との間に、ナタンはミヤテとリワナ、ディアンが居るのを感じた。三人とも下に座って、ここで自然が形作ったものを眺めていた。ナタンは三人の友人たちが実際にはいないことは分かっていたが、まるで実際にそこにいるかのような幻想だった。ナタンは、四人で一緒に同じメッセージを受け取っているような気がした。自分も円柱の間で下に座った。前にはディアンが、左にミヤテ、右にリワナがいた。四人は一緒になって、サインが示すメッセージを解読しようとした。その時突然、ナタンはメッセージをはっきりと理解した。すると他の三人が消えた。ナタンは立ち上がって寺院の出口に向かった。中で長い時間を過ごしていた。Yシャオは連れの仲間が消えてしまったことを警察に連絡しようかどうかとためらっていたが、その時ナタンが戻ってきた。Yシャオは大きく息をついた。

「中で何が起こったんだい」ナタンにそう訊ねた。

「言葉にするのが難しいことが起こったよ」

「何が起こったか教えてよ」

「宇宙には始まりも終わりもない、すべての終わりのあとには必ず新たな始まりがある、ということを知る経験をしたんだ」

Yシャオはナタンを見た。言わんとしていることがよく理解でなかった。

「このことにはどんな質問も役に立たない。説明しようとすると、あの経験が曲げられて伝わってしまう」

二人はその夜街の中心部にあるホテルに泊まった。翌日、二人はプノンペンへと向かった。一日中、食事の時以外は休まず運転していた。夜、Yシャオは村に行こうと言った。だが途中で車が故障し、Yシャオはなんとか道の脇に車を停めた。エンジンがかからないようだった。そうする間に夜も更けてきた。周りには灯りが見えない。Yシャオは懐中電灯を取り出してモーターを調べたが、どこもおかしそうなところはない。どうしてモーターの調子が悪いんだろう、とYシャオは思った。車は新車で、これまではちゃんと走っていた。Yシャオは自分の携帯を使おうとしたが、電波が届かない。ナタンは、いま通ってきたところは住居が見えない、だからこのあたりには電話網がないんだよ、と言った。二人は疲れてしまった。車の中で眠ることにした。一晩眠れば解決方法が見つかるだろう。夜明けが来れば、できることが分かるだろう。太陽の光が出た頃二人は目が覚めた。辺りを歩いて、二人は人里離れたところにいることを知った。ナタンは石の上に座って休んだ。

「心配するのはいろいろなことが起こってからだね」Yシャオが言った。

「予想しない出来事が起こった時は自信を持たなければ。そういう出来事は知恵の教訓を運んでくるから」

Yシャオは不安を隠すのに精一杯だった。ナタンのそばに座って、大きく息を吸った。彼は不意に空を指差して、大きな鳥がいる、とナタンに言った。二人はその鳥が飛んでいる様子を見た。鳥は丘の向こう側に飛んでいった。二人はお互いを見た。二人ともそれは何かのサインだと思った。丘の向こう側を見に行くことにした。丘の頂上まで上がるのは思っていたより時間がかかったが、そこには驚いたことに、素晴らしい庭に囲まれた大きな邸宅があった。二人はその家に向かい、門に来たところでベルを鳴らした。門には厳重な防犯機能が備わっていた。ナタンとYシャオは、邸宅の中から自分たちの様子が見られていると思った。しばらくして、門を開けにくる人がいた。その男の名前はヒュンキと言った。この家で働いていた。Yシャオは、自分たちの車が故障していることを伝えた。ヒュンキはついてくるように合図した。二人は男についていった。池や像がちりばめられている庭を通った。ベランダの入り口に老人がいた。彼は英語で名を名乗った。スンという名前で、韓国の出身だった。Yシャオは彼に、乗っていた車のモーターが故障してしまったんです、と言った。スンはヒュンキに、車のある場所まで行って車を修理してくるように言った。それから、Yシャオとナタンにお茶を出した。スンは二人に興味を持った。

「君たちはどこから来たのですか」

「シェムリアップに行って、タ・プロームを見てきたんです」Yシャオが答えた。ちょうどお茶を飲んでいたスンは、お茶が喉につかえそうになった。

「偶然だ、先週私もそこに行ったんだよ」

「偶然に注意を向ける人には、進むべき道が見えてきます」

スンはナタンをじっと見た。彼の興味が増していった。

「お仕事は何をしているんですか」

「プノンペンで不動産を所有しています」Yシャオが答えた。

「ナタン、君は何を?」

「僕はお茶を飲んであなたの話を聴いています」

「あまり話したくないんですか?」

「いえ、僕は今を生きていますから」

「ではお友達のような仕事はしていないということですか」

「多くのものは所有されるためにではなく、使われるためにあるということを知りました」

この言葉にYシャオは少し居心地の悪さを覚えた。ナタンは手をYシャオの腕に置いた。スンはまたナタンを静かにじっと見て、こう言った。

「もし所有することがいわば束の間のものならば、あなたにとっては価値のないものですか」

「所有していることそれ自体に価値があると考えているときは、その物に依存して人生を犠牲にしてしまう恐れがあります」

「でも犠牲は人生につきものでしょう」スンが言った。

「自分たちにとって良いものとただの見せかけのものとをちゃんと区別することで、本当に必要なものだけを欲しいと思うようになります。それは、自分の自由を広げてくれるもののことです」

「つまりどういうもののことでしょう」スンが訊ねた。

「私たちが理解できるもののことです。物事を理解するためには、何も犠牲にすることはありません。そして物事を理解するとき、自分の自由が広がります。私たちが理解できるものは奪われたりしません。それらは私たちの本当の姿の一部ですから」

「興味深い」スンが言った。Yシャオは、スンがナタンの話にだんだん惹かれていっていることに気づいていた。はじめ居心地の悪さを感じていたのが、いまは誇りに変わっていた。そしてナタンの言ったことを確認するようにこう言った。

「何かを所有することはただの見せかけの自由です。所有すればするほど、より多くを求めるようになり、満たされなくなっていくのです」

スンはしばらく何も言わずにいた。ナタンは、スンとYシャオによく考えさせることができたと思った。そしてスンがこう言った。

「こんなことを言うと不思議だと思うかもしれません。実は昨晩、私は人生を大きく変えるようなことを理解するだろうという夢を見たのです」

「私たちの今の話が、あなたの人生を変える感じがしますか」ナタンが訊ねた。

「私は何かを本当に変えたいと思っているのか、それが問題です」スンが答えた。

「あなたは独り身でいたいのかどうか、それが本当の問題でしょう」ナタンが言った。

「どうしてそう思ったのですか」スンが言った。

「あなたたちは二人とも、何かを犠牲にする道を歩んできました。そして気がつけばいつも孤独が待っていたのです」

ナタンは沈黙した。しばらくして、スンが再び話した。

「私のことを殆ど知らないのに、あなたはあっという間に贅沢な生活の裏に隠されているものを見抜いたんですね」

「ナタンが話すことは、いつも的を得ているんです」Yシャオが言った。

「そうです。孤独感のように、それぞれの感情は、存在理由を持ちたいという欲求から来るんです」ナタンが言った。

「存在理由を持ちたいという欲求、ですか?」スンが言った。

「内面の願望を満たしたいと思うことです」ナタンが言った。

「どういう願望のことですか」

「人生の目標を成し遂げたいという願望です」

「僕の孤独感は自分の内面の願望によって説明できるということ?」Yシャオが訊ねた。

「深いところにある欲求は、自分の感受性から出てくるものなんだ」ナタンが言った。

「どうして感受性は孤独の痛みを感じるように仕向けるのですか」スンが訊ねた。

「犠牲の道を進む人々にとって、それはしばしば彼らが感受性を備えていることを教えてくれる方法なのです」

沈黙が訪れた。ナタンの言葉が心を打った。ナタンはちょっと気分転換にと言って席を立った。戻ってくると、Yシャオとスンが熱心に会話していた。二人はカンボジアが抱える住宅の大きな問題について話していた。状況を良くするために何かしたい、二人はそう話した。スンは二つの河川が合流するところに広大な土地を持っている、と言った。その場所は土地が肥沃で、大きな街を建設するのにふさわしかった。ナタンは二人に言った。

「これ以上のサインはありません。今日あなたたちが出会ったのは偶然ではありません。いえ、偶然に起こることなど何もないのです」

「君が僕たちを会わせてくれた。とても不思議な出会いだよ」Yシャオが言った。

「Yシャオ、それよりももっと大きなことに目を向けて。君たちは正義感を覚える持つことができたんだよ」

「私たち二人が一緒に仕事をするのはもう決まりということ?」スンが言った。

「話を聞いていて、プロジェクトが出来上がりつつあるなと思ったんです。カンボジアの人々のためのあなたたちの行動が、あなたたちの持っている罪の意識と孤独感を消してくれるでしょう」

ヒュンキが入ってきて、車の修理が終わったことを告げた。ナタンとYシャオは立ち上がり、出発する支度をした。Yシャオとスンは計画を練るため、別の日に会う約束をした。スンが玄関までついていった。Yシャオが車に向かい、その間スンはナタンにこう訊ねた。

「どうしてYシャオが私にとって重要な存在になると思ったのですか」

「Yシャオはヨーロッパに移る前から、この世界に隠された科学を教わっていました。小さな頃から、彼は人生に対して明確な見方を持っていました。今それを実行に移すことが可能になろうとしているんです。彼はあなたに多くのことを教えてくれることと思います」

「私は、彼にとってどんな意義を持っているのでしょうか」

「Yシャオはいつも自分の勢いにブレーキをかけるんです。ひどく失敗を恐れています。彼の感受性は、自分の恐れを克服する助けとなりうる人を探すように仕向けています」

スンはわかりました、というようにうなずいた。彼は熱意を持ってナタンに感謝した。そしてナタンはYシャオの居る車に乗り込んだ。二人はスンとの出会いについて話した。話の中で、Yシャオはナタンに、スンが訊ねたのと同じようなことを訊いた。

「どうしてスンが僕にとって大切な存在になると思ったんだい?」

「三人で話していてそう思ったんだ。スンは若くして人々の敬意を集めて、財産を築いた。だから若いときからこの世界の力関係に向き合った。彼とつき合うことで、君は彼から学ぶことがあると思う」

「僕は彼に何ができる?」

「スンは崇高で明確な目標を持ったことがない。そのことで彼は失望している。彼の感受性は、ずっとその目標をはっきり持つ助けとなる人を探すように仕向けていたんだ」

「ナタン、君に何と礼を言っていいか分からないよ」

「君たちの計画の進み具合をいつも知らせてくれれば十分だよ」

Yシャオは、ナタンが自分の任務を遂行したのだと知った。

「ナタン、君は何を学んだの」

「僕たちの感情は内なる願望のために役立っているんだということが解ったよ。タ・プロームの寺院で、自然についてとても重要なことを知ったんだ」

Yシャオはずっとシェムリアップで何が起こったのか気になっていた。

「それが嵐でも、地震でも洪水でも、自然の力はあっという間に収まって、静けさが戻ってくる。そして、静けさのなかにあって、はじめて物事は本当に存在し始めるんだ」

Yシャオはそれが理解できなかったが、いつか理解する日が来ると思った。

「次の目的地はどこか、もう分かっているのかい」

「ラウラが僕に会いたがってたって、話してくれたよね」

数時間後、Yシャオはナタンを空港で下ろし、ギリシャ行きの航空便を予約してあげた。