感情

 

 

ナタンは難しい選択を迫られていた。パリに留まり仕事を続けることも、旅を再開して新たな目的地と新たな挑戦を求めて出発することもできた。そこから数日間、シモンは所有不動産の売却と、従業員のための新しい仕事探しに奔走していた。彼の持つ人の繋がりのおかげで、これらの事は素早く解決した。シモンが合衆国に旅立つのは冬の初めの予定だった。シモンの妻はもう先に着いていた。出発の前夜、シモンは1時間前まで引越の準備をしていた。ナタンもシモンと一緒に起きていた。すべて梱包されて、二人は静かに自分たちのこれからのことについて話す時間をとった。シモンは若者に言った。
「この数週間手伝ってくれてどうもありがとう。すべての従業員に代わってお礼を言いたい。君は自分のことよりも彼らに気を配ってくれた」
「それはあなたのためでも彼らのためでもありましたが、自分のためでもあったんです。彼らはいつも頑張っていましたから」
「君がわたしのためにしてくれたことにも感謝しているよ。この数週間のことだけじゃなく、君がここに来てからのことすべてにね」
「私たちが共に過ごした時間すべてに、いつも感謝していました。あなたはわたしの第二の父親でした」
シモンはナタンの言葉にとても感動した。
「私が旅立つことで、君はまた選択をしなければいけないのでしょう。この数週間は多忙のせいで、二人で話す時間をとっていなかった。これからどうするのかはもう決めたのか?」
「あなたの旅立ちを新たな始まりというふうに捉えて、自分の旅を続けなければならないのか、それともまだパリで学ぶべき大事なことがあるのかと考えています」
「それは君以外には誰にもわからないことだ」
シモンは、ナタンにとってそれが難しい選択であることがわかっていた。シモンにはこの若者が求めているものがよくわかっていた。大切なことをナタンに伝えようと思った。
「優れた知識を得ようとするなら、二つの旅をしなければならない。ひとつは外側の世界に広がる旅、もうひとつは内側の世界での旅だ」
「内側の世界を旅するとはいったいどういう事でしょう」若者は驚いて訊いた。
「外側の世界で体験する冒険が、内側の世界での旅につながるのだ」
「この言葉をよく考えてみます」
「ひとつお願いを聞いてくれるか」
「もちろん」
「君がどういう選択をしようと、人生の目的は忘れないで欲しい」
「ご安心ください、せいぜい少々道に迷うことはあるかもしれませんが、諦めることは決してしません。でも確かに、私の人生の目的が何か、もうわかっていれば事はより簡単なのですが」
「それに答えるのは難しい。だが私は君と十分長く時間を共にしてきて、君は何か並外れたことができる人だとわかる。君は他の誰にもできないやり方で、優れた知識を伝えることができる人だ」
翌朝、ナタンは空港までシモンを車で送り、二人は別れの挨拶をした。ナタンはパリに着いてからの数日間と同じように、また独りになった。ナタンは慣れた業界で働き続けた。最初の数週間はとても順調だった。しかし、どこかに物足りなさを感じていた。お金を稼いで貯金もしたが、新たな経験がほとんどなく、同じような日々が過ぎていき、単調で退屈なものになった。
その後数週間、ナタンは仕事にかける時間をだんだん減らしていった。新しい刺激を求めて、夜遊びをするようになった。定期的にナイトクラブやカジノに行った。あっという間に夜遊び仲間ができた。ナタンはものの言い方が爽やかで、誰にでも好かれた。彼の素質と、父親とシモンに学んだこととのおかげで、言葉は彼にとって、一種の芸術となった。この頃ナタンは、自分の言葉が周囲の人に影響を及ぼしうることを意識せざるを得なかった。彼と知り合う人はほとんど彼と友達になりたがった。女の人は彼の魅力に屈し、自分自身の成功の果実を集めるため、彼の仲間になることを好んだ。はじめは、ナタンは自分の前にひらけたこの新しい世界に興奮していたが、またたく間に物足りない気持ちになった。この世界での他人との関係が表面だけだということを察知し、自分自身と対峙していった。
春にナタンは南フランスに短期間の滞在をした。トゥルーズの市場で、ソフィという名前のうっとりするような美しい女性と出会った。果物屋で彼女が働いているところを見かけた。茶色の髪と緑色の目、それに調和した微笑みを持っていた。ナタンはその魅力に惹かれた。彼女は、無愛想で無表情な印象のある年老いた男と一緒に働いていた。それは彼女の父親だろうか、それとも従業員だろうかと思った。そのとき、男が空箱を運ぼうと売り場を離れ、ナタンはその若い女性に近づいていった。二人は長く見つめ合って微笑んだ。ナタンは近くからソフィのその美しい緑色の目を鑑賞することもできたが、ナタンがいるせいで女性は少し狼狽した。ナタンは果物をいくつか選んで、彼女と少し言葉を落ち着いて交わそうとした。
「一緒に働いている人は今日ご機嫌が悪そうだね」
「私のボスよ。今日もいつもと変わらないの」
「彼と働くのは簡単ではないでしょう」
「時間が経って、もう慣れっこよ」
「習慣とは奇妙なもので、人を嫌いなものの側にとどめるんだ」
ナタンは自分の言葉がソフィの心を捉えるだろうと確信していた。あと二つ緑色のリンゴを手にとり、ソフィが量った。
「それで、他人の習慣に口出しする人たちはどうなの?」彼女は訊いた。
「彼らの意図は何かと、知りたがっている人たちだ」
「人の本当に意図することを知るのはいつも簡単とは限らないでしょ」彼女が言った。
「時間をとってお互いを知ろうとすれば、もっと簡単にわかるさ」ナタンが答えた。
ソフィは微笑んだ。ちょっとした会話で、ナタンはその日の夜に会う約束をとりつけた。街に出かけて食事をしようと誘った。二人は、お互いとても仲良くなれるとすぐにわかった。ソフィは、両親がイタリアからフランスに移住してきたことを話した。ソフィの父親は、彼女がまだ小さいときに亡くなっていた。ナタンは直観的に、このことが、無意識に、彼女はいつかその欠乏感を埋めてくれる男の人と出会いたいと思わせるようになったのだと理解した。その週の間二人は毎日会った。たくさん話をした。選択をする方法が、二人のよく話題にすることだった。
ナタンと話をするうちに、ソフィはより人生を充実させるため、何かを始めなければならないと感じていた。一週間後、ナタンはパリに戻り、自分と一緒に来ないかとソフィを誘った。彼女はナタンのことをとても愛していて、そのことを長くためらうことはなかった。その数日後、二人はパリに着いた。ソフィは彫刻の教室に入り、自分の趣味に没頭した。ナタンは彼女のためだけにアトリエを借りたが、ソフィは収支をつけていた。
ナタンはよく外に繰り出した。一方ソフィは夜遊びが好きではなく、一緒について出ることはかなりまれだった。これは時間の問題で、夜遊びはナタンに合ったものではないと解るようになるだろう、ソフィはそう考えた。
ある日、ナタンは買い物帰りのソフィを迎えに来た。彼女は新しい服を買って、ナタンにそれを早く見せたがった。車に乗ると、彼女はナタンが考えに耽っているのに気がついた。これまでもよくあることだったので、彼女はそれほど心配していなかった。
「大丈夫?」彼女が訊いた。
「うん、大丈夫」
ナタンはアパルトマンへ向かう道を外れていた。
「どこに行くの?」
「ここを出たい。もう少し走ろうか」
ナタンは西に向かう高速道路に乗った。
「何か私に話したいことがあるの?」ソフィが訊ねた。
ソフィは本気で心配になり、ナタンにそう話した。ナタンは車を道路の脇に停め、彼女にキスをした。
「心配しないで」ナタンが言った。「君には関係ないことだよ」
「どこに行くの?」ソフィが訊いた。
「考えてみるよ」ナタンが答えた。「君もちょっと休みなよ」
ナタンは再び車を走らせた。彼の言葉で、ソフィは少し落ち着いた。頭を彼の肩に預けて眠り始めた。
ナタンが大西洋沿岸の町近くで車を停めたのは日暮れ時だった。土手の近くに車を駐車した。ソフィが目覚めて訊ねた。
「ここはどこ?」
「生命の起源さ」
ナタンは車を出て、海に面する小さい石垣の上に座った。干潮時だった。砂浜が姿を見せていた。ナタンは波のほうに視線を漂わせていた。ソフィが車のドアを開けて、太陽が地平線のほうに沈んでいくのを見た。空が薔薇色と青の美しい色合いを見せていた。ソフィは深呼吸をして、肺を海の空気で満たした。
「このあたりは何という場所なの?」
「レ・サーブル・ド・ロンヌ」
ナタンは立ち上がって、ソフィを胸に抱いた。ソフィは、今この時ほど幸せだったことはないと言った。二人は店に入った。ナタンはワインを一本、コルクスクリューとグラスを二つ買った。
ソフィはナタンを愛していた。ナタンの側に居ると何も悪いことは起こらないかのように安心していられた。ナタンと居れば、不安は消えた。今まで他の誰といるときもこれほどのことは起こらなかった。だが彼女は、今宵何か特別なことが起こる予感がしていた。彼女はとても静かだった。
二人は砂浜を散歩して、水にごく近い乾いた砂のあるところに落ち着いた。ナタンはワインを開けグラスにワインを満たした。ソフィはナタンの腕の中に身を寄せた。二人は地平線を見ていた。
「ナタン、何か話してよ」
「僕は何が何だかわからないよ」
ソフィはナタンの声を聞いて、彼が困難な問題に気をとられていることがわかった。彼女は心配した。
「あなたほど物事をはっきりと理解する人は見たことがない、しかもいとも簡単に。でもいまはどうして訳が分からないって言うの?」
「みんな僕の話に聞く耳を持つ、確かにその通りだ。みんな僕の言うことほとんどすべて信じてくれる。でも実際、僕は物事をほとんど知らないんだ…僕は自分の才能を手放そうとしているんだ」
「まだ何を知りたいって言うの?」
「シモンが発ってから毎日知識が広がった。でもそれ以来僕は、いつも高慢に振舞っている」
「何か後悔していることがあるの?」
ナタンはソフィのほうに視線を向けた。
「過ぎたことは過ぎたことだ。後悔しても何もない」
「何か変えたいことがあるの?」
「自分の旅を続けて、新しい人々に出会わないと」
ソフィは黙った。ナタンに会った日からこの時が来るのではないかと恐れていた。ナタンは別れようと言おうとしているのだと理解した。旅を再開したいということを隠さずに言っていたから、そのことで彼を非難することはできなかった。ソフィはナタンのことをよくわかっていて、もうそれは決めたことだと知っていた。しばらく彼女のための場所はなかった。彼を失いたくなかったがために、いつも彼を引き止めることはしてこなかった。ナタンは彼女の沈黙に気がついた。
「今度はきみが黙ってしまったね…」
「だれかの自由を縛ることは絶対にいけないと教えてくれたよね。あなたの内面が安らぐために必要な余裕を与えてあげたい」
そう言い終わったあと、ソフィは泣き始めた。ナタンは彼女を抱いて、彼女の悲しみを癒そうとした。彼女は落ち着きを取り戻した。
「別れることはあなたにとっても残念なこと?」
「もちろん。君のことをたくさん想って、幸せな気分になるだろう」
「どういうこと?」
「お互い寂しくなるだろうけど、それは幸せの形のひとつだから」
「帰ってくるの?」
ナタンは彼女の目を見て、両手を握った。
「ソフィ、僕はこの先いつも君のことを想ってるよ。将来がどのようなものになろうとも」
ナタンは他のことを約束しようとはしなかった。できなかったのだ。ソフィは彼の言葉を理解して、喜びを覚えていた。
その時、突然鋭い風が、音を立てて海の上を吹いた。風は強くなって砂が舞い上がった。ナタンとソフィは立ち上がった。もう夜になっていた。風は海岸を横切ると、二人は歩くのがやっとだった。土手までたどり着くと、風は吹きはじめた時と同じように急におさまった。ナタンとソフィは不思議な現象だと思ったが、その現象の説明はできなかった。二人は駐車場まで歩いて戻ってきた。通りは静かで、誰もいない。不思議なことに、ソフィは心がとても平穏になった。自分が風になって、自分の心を静めたように感じた。二人は車に乗った。パリまでの道のりは長い。