活力

 

 

ラシッドはミュージシャンたちが夜到着すると言った。夜明けに儀式が終わると、ナタンは砂漠に陽が沈むまで一人にされるという。砂漠に一日中ひとり取り残されるということにナタンは興味を持ったが、しかしその冒険にどきどきする気持ちも覚えていた。
「無事に生き残ってやり遂げる」彼は言った。
「生き残るというより、むしろ生き返るんだよ!」ラシッドが言った。
ナタンはラシッドがもっと何か言いたいのではないかと思った。メモを取る準備をして、注意深く耳を傾けた。
「優れた意識の世界では、」ラシッドは言った。「普段の意識レベルでは見えない存在が見える。しかしそれはそこに存在して人間について来る」
「その存在は自分自身でついて行く人間を決めるの?」ナタンが訊ねた。
「それは動き回っているが、最後は人間がそれぞれ、どの存在について来て欲しいのかを自分で決めるんだ」ラシッドが答えた。
「どうすれば優れた意識の世界に入り込むことができるの」
「いくつかの方法があるよ。その一つは音楽のリズムを使うことだ。祖先はわれわれにリズムを教えてくれた。リズムはわれわれをトランス状態に導き、宇宙の活力を別の角度から見させてくれるんだ」
ナタンは自分のメモを読み返してこう訊ねた。
「ラシッド、あなたはスピリチュアルの世界に精通しているようだけど、それを現代科学とどう折り合いをつけているの」
「現代科学はエナジーの働きに関わっている。一方、精神世界はわれわれがそのエナジーにどう作用するかを教えてくれる」
「あなたの言うエナジーとはどういうものなの」
「宇宙にあるもの全てはそれぞれ異なる活力とそれらの関係とで成り立っている。トランスの体験はその活力を違った方法で捉える助けとなってくれるんだ。われわれはどのようにそれぞれの活力がその固有の場所を持っているかを知り、現実の隠れた側面を観察することができるのだ」
「正確には何を観察するの」
「きみの前に明らかになるものは、きみ自身に向けられたものだ。自分の進化に寄与して、きみの目的を提示するものだ」
その会話の後、サナはナタンに少し散歩に行こうと言った。二人は砂丘の上まで登って、広大な風景を望んだ。
「ラシッドとの会話で何が心に残った?」
「僕たちの世界に見える存在のことを話していたね。それから、今夜僕が体験することは、日常ありふれて起こっていることをより深く観察するまさにそのことだと」
「よく理解できた?」
「いまのところはね。でもこれから僕の前に現れるものがもっと僕の理解を深めさせてくれると思う」
サナはナタンの腕に手を置いた。
「これから、あなたは精神世界の引力を感じて、その引力はあなたを決して離さなくなるの」
その時、遠くでエンジン音がした。バスだった。サナとナタンはバスが近づいてくるのを見ていた。
「仲間がやって来たね」ナタンが言った。
「そうね、ミュージシャンたちが来たのね」サナが言った。
サナとナタンは砂丘を降りてテントに戻った。赤い服に身を包んだミュージシャンたちがバスから降りてきた。楽器と太鼓、タンバリンと弦楽器を持ってテントの下に来た。お茶が出されて、ミュージシャンたちは演奏を始めた。そのリズムはゆっくりと始まって、だんだん速くなっていった。力強い歌が始まってリズムと絡んだ。陽が沈んだ。音楽はだんだん速くなっていき、歌声はだんだん大きくなっていった。ナタンはその小さなパーティーを気に入った。ラシッドが来てナタンをテントの中央に連れていった。ラーセンとサイードがそこに居た。サナはナタンを強く抱き締め、明日太陽が沈んだあと迎えに来るから、と言った。
ナタンがテントの中央に来るとその音楽はなおも音量を上げた。儀式を執り行う三人がナタンに旋回の仕方を教えた。ナタンはすぐにその動きを覚えた。少しずつナタンは、自分の中に陶酔と恍惚が同時に来る状態に近い感覚を味わった。周囲に見える現実と想像から来る考えの区別ができなくなり始めていた。感じるものがすべて混ざっている気がしていた。ミュージシャンたちを見ると他にもその場に参加している人々が見えた。彼らは人影に似ていて空中に浮いていた。その人々はだんだんと増えた。彼らがナタンを心配している様子は全くなかった。ナタンは今やとても体が軽くなったように感じ、時間の感覚も空間の感覚もなかった。その音楽から来る興奮に促されて、目を閉じて旋回を続けた。そして突然、静けさがその場を支配したのだ。
ナタンは目を開けた。一人で腰掛けに横になっていた。テントの中はとても暗かった。静けさだけがあった。ナタンは不安になり、儀式の場に居た人々はどこに行ったのだろうと思った。用心深く体を起こして外に出た。小さなバスとミュージシャンを乗せたバスは去っていた。起こったことを正確に思い出そうとしたけれど、断片がいくつか記憶に蘇ってくるだけだった。外に出ると、ナタンは全く物音のない、とてつもなく静かな場所に居た。どこか水の中にいるようだった。ようやくそよ風が吹く音がした。砂の上を歩き始めた。たくさんの疑問が思い浮かんだ。今夜は何が起こったんだろう。ここは本当にサハラ砂漠なのか。自分は本当に儀式をしたのだろうか。ラシッド、ラーセン、サイードは存在しているのだろうか。ナタンはしだいに正気を失う感じがした。ついにはサナの存在までを疑った。彼女は天使なのだろうか。自分は本当に天使に出会ったのか。彼女に僕を紹介したのは誰だったか。アドナンには会ったか。モロッコには居るのか。もう十分だ、ナタンは思った。そして頭の中を整理した。
ナタンはよりどころとする確かなものを探した。しかしどんなに頑張ってみても、何にも確信ができなかった。しゃがみ込み、砂を手にとってこぶしを作った。砂、これは自分が本当に感じることができる要素だ、そう思った。その確信をつかんだまま立ち上がり、ひとつ息を吸った。すると砂は彼の手の中にとどまることなく、砂の粒がどんどん容赦なく流れ出た。流れていくのを止めようと手をもっと強く握り締めるも、砂はますます速く流れて、彼の確信を一緒に流していき、ナタンは耐え難い孤独感をひどく感じた。ナタンは自分が本当に砂漠にいるのか、それとも夢のなかにいるのかと、改めて自問した。
突然、ナタンは何かを感じた。しかしその映像はすぐに逃げていき、もう砂漠の空気の他には何も見えなくなっていた。それにはもう気を留めることなく、砂丘の一番上まで登って周りを観察した。その時風が吹き、ナタンはいくらか平穏さを覚えた。彼は夢の中にいるわけではなかったのだ。ナタンが砂丘の頂上に近づいた頃、彼は特別な瞬間を経験した。眼前に太陽がおごそかに昇り、砂漠の砂の一粒ひと粒にオレンジの色をつけた。その熱と光で、彼は言葉にならない自信に満たされた。この時から、彼は今どこか他のところではないここに居るのだという確信を持った。ナタンは腰をおろして、この瞬間を深く味わった。まるで生命の新鮮な活力が彼をとらえたようだった。その感動が、特に心地良い感覚をもたらした。森羅万象の一部をなす感覚だ。彼は再び何か、もしくは誰かが自分のそばに居る感じがした。後ろを振り返って、今度は注意深く見たが、黄色と金色の砂丘の風景の他には何も見えなかった。『これは強烈な光からきているに違いない』そう思った。しばらくすると、彼は遠くにベドウィンがラクダに乗って彼のほうに向かって進んでくるのを見た。そのベドウィンはナタンのそばに来ると地面に降りた。ナタンはアドナンが教えてくれたアラビア語で挨拶をした。
「As salamou alaykoum ! (こんにちは)」
「Wa alaykoum as salam ! (こんにちは)」ベドウィンは答えた。
ベドウィンにそれがアラビア語で言えることの全てだということを伝えるため、ナタンはフランス語で話しかけた。
「他にも言葉は話しますか」
ベドウィンはフランス語で答えた。
「いつも出会った人の話す言葉で話すよ」
ナタンは驚いた。
「いくつ言語を話せるのですか」
「自分の言いたいことを話せない言葉はない」
「全部の言語を話せるのですか?」
「存在する言葉すべてを話せる」
「じゃあすべての人と会話ができるのですね?」
「すべての人と、存在するものすべてと、サハラの小さな砂の粒とだってね」
ナタンは変な話だと思った。だが仲間ができたことが嬉しく、不安をそれほど感じてはいなかった。
「お会いできて嬉しいです。あなたは今朝会ったはじめての人です」
「注意して見ていないということでしょう」
「どういうことですか」
「君はもう二人の訪問者を見たはずだ」ベドウィンは言った。「最初の者が去ったとき二人目の者が来た」
誰にも会っていないと思っているので、ナタンはベドウィンの言わんとすることが理解できなかった。
「私はここにひとりで居ました。ずっと誰も見ていません。いつ私を訪ねてきた人が居るというのですか」
「最初の訪問者はとても早い時間に君のそばに来て、君が砂丘に登って二番目の訪問者に出会うまでそばに居た」
ナタンはその男の話がとても変だと思い、あまり注意して聞かなかった。
「ところであなたはここで何をしているのですか」
「僕はサハラ砂漠に来る人々みんなにプレゼントをしているんだ。それはとても貴重なものだ」
ベドウィンは振り返ってバッグから水筒とコップを取り出し、コップに水を注いでナタンに差し出した。
「君にとってはこの世で一番貴重なプレゼントでしょう」
「ありがとう、砂漠では水は貴重な贈り物だというのはよくわかります。でも水はみんなにとって価値のあるものですね。どうして私にはもっと価値があると言うのですか」
「いい質問だよ、ありがとう。これで僕の使命は果たされたよ」
ベドウィンはそう言い残すと、ナタンに別れを告げてすぐに立ち去った。ナタンは遠ざかって行く彼を見ながら、いま何が起こったのだろうと思った。変な人だった、万物と、世界中の人々と話せると言い張っていた…しばらくして、ナタンは彼が言ったことをよく振り返ってみた。今朝二人の訪問者が来たと言い張っていた。それはありえないように思われる。ナタンは誰も見ていないのだから。次にベドウィンは彼の使命のことを、サハラ砂漠に来た人々みんなに貴重な贈り物をしていることを語った。そしてナタンに飲み水を渡した。
ナタンはコップを持ってテントに戻り、まだその奇妙な会話のことを考えていた。メモをもう一度見返し、砂の上に座ってそこにベドウィンの話を加えた。すべてをメモして、書いたものをよく読み直した。ナタンは何に一番注意を払うべきなのか知ろうと直観を働かせた。一番目を惹いたのはベドウィンの言葉だった。どうやって万物と話すことができるのか。彼が話していた二人の訪問者とは一体誰だろう。そしてずっと以前からその答えを求めていた問いだが、自分の人生にとって水とは一体どんな役割を持っているのだろう。
ナタンはコップの水をゆっくり飲みながら深く考えていた。しばらくして、自分の思考が妨げられた。風が吹く音がまた聞こえて、ナタンはすぐに外の様子を見に出た。遠くでもの凄い砂嵐が巻き上がっていた。大きな砂の雲がとてつもない速度で近づいてきていた。ナタンはどこに避難していいものか分からなかった。ただ一つ思い浮かんだことは砂の下に隠れて、両手で頭を覆うことだった。砂嵐は彼の上を驚くべき力をもって通り過ぎていった。そこで隠れている間、ある声が不意に彼にこう言った。
「こんにちはナタン、僕は好奇心です」
ナタンは思った。『どうしてこんな時に誰かが話しかけてくるんだろう。好奇心っていう名前だって』ナタンは顔を上げると、儀式の間に見えたような人影のようなものが見えた。
「何が起こっているんですか。僕を知っているんですか」
「もちろん僕らは知り合いだよ。僕はいつも君の側に居るよ!」
砂の雲の中に見える幻影を、ナタンはもっとはっきり見ようと目を凝らした。だが影はもう消えていた。ナタンは肘をついて体を持ち上げ前を見た。何か粘土の街に似たものが見えた。色々な種類の影が行き違っていた。また影が一つ、彼の前に向かってきた。
「こんにちはナタン、僕の名は注意。僕を君のそばに置いておくのが身のためだよ、君は僕を必要としているんだから!」
ナタンが答えようとする前に、三つ目の影が来た。
「こんにちはナタン、調子はどう?」
「僕の調子?とても変な気分ですよ。ところであなたは?」
「私は君のお気に入りの仲間の一人、名前は、自信」
次第にそれらの影はナタンの周囲を廻り、みんな同時に喋っていた。ナタンは呆気にとられた。目を閉じて顔を砂の上にうずめた。そのとき風が静かになった。ナタンが嵐は通り過ぎたと知ると、顔を上げて砂の雲が遠くに去っていくのを見ていた。粘土の街もまた消えていた。静寂がまた訪れた。ナタンは目をこすり、彼を覆っていた砂を払い落とした。驚いたことに、嵐があったにもかかわらずテントは無事だったことに気づいた。腰掛けを見てもっと驚いた。ベドウィンがくれたコップもそのままその場所にあった。メモもそのままだった。砂嵐はただの想像だったのだろうか。しかしナタンはその問いは優れた意識の世界では重要でないことを理解していた。重要なのは見た映像のもつ意味だ。それらはどんなメッセージを運んできたのだろうか。
ナタンはアドナンが映像の力の話をしていたのを思い出した。幻影の背後に隠れている秘密を見つけなければならないことを理解していた。影のいくつかが彼の前に現れた。彼はまず好奇心に出会い、次に注意に出会い、そして自信に出会った。それらの名前をメモして、しばらく考えた。それら名前が感情を表しているのは明らかである。もう一度メモを見る。少しずつ、それらの言葉が持つ意義が明るみになってきた。その3つの感情は彼の前に自律した主体として現れた。それらの影が感情だったということだ。ラシッドが話していた、人間についてくるスピリチュアルな存在のことだ。
ナタンは、今見たものはただ人間の振舞いを雄弁に物語る奇妙な光景だ、そう理解した。ラシッドが言ったことを思い返していた。『最後はわれわれが、自分でどの感情を自分に伴わせるかを決めるんだ』ナタンは、誰もがみな、いつもどの感情に自分を支配させるか決められる状態にあるということを理解していた。彼は精神も頭も疲れてしまった。それにひどく空腹感を覚え始めた。腰掛けに寝て休んだ。眼を閉じるか閉じないかというとき、ある考えが頭に浮かんだ。全部の影はとても速く動く能力を持っていた。ナタンはそれが思考の働くときの速さだったと考えた。そして砂丘に誰かがいると思った時のことを思い出した。その時感じたことを思い出した。砂が流れ出るのを見ながら、孤独だという気持ちでいっぱいになった。その感情は太陽が昇る時に消えた、それはその時、一体感を覚えたからだった。孤独が宇宙との一体感に取って代わられたのだ。ベドウィンが言っていた二人の訪問者とはこのことだったのだ。そこまで考えたところで彼は眠りについた。
目が覚めたのは午後も遅くになってからだった。何が起こったかを理解するのに少し時間が必要だった。しかし彼の理解を待たずに、寝ている間に彼は起こったことをすべて一つに整理していた。とても暑く、空気が乾いていた。ナタンは水を飲みたかったが、コップの水は空になっていた。ナタンはテントの外に出た。外はしんとしていた。また砂漠の静けさを味わった。空は青く澄んでいて、砂は金色をしていた。砂の粒が光のせいで踊っているように見えた。ナタンはとても元気だった。少し経って、彼は遠くに影を見つけた。人がこちらに向かってくる。麦わら帽子をかぶり、濃い赤の服を身につけ、大きな革のバッグを肩から斜めに掛け、鈴がバッグ全体にぶらさがっていてその歩いているリズムで鳴っていた。ナタンはベドウィンのときと同じようにあいさつをした。
「As salamou alaykoum !(こんにちは!)」
「Wa alaykoum as salam !(こんにちは!)」男は麦わら帽子に手を遣ってそう答えた。
「フランス語は話しますか」ナタンは訊ねた。
ベドウィンと同じように男はフランス語でこう答えた。
「砂漠を旅する人と同じ言葉を何でも話しますよ」
「あなたはきっとベドウィンの人を知っているでしょう」
「ベドウィンの人はたくさん知っています。彼らは大昔からここを旅している」
「あなたも突然消えてしまうのですか」
「長くとどまることはできません。私の使命はサハラ砂漠を旅する人すべてに、砂漠で学ぶ教訓を与えることです」
そう言って、男はベルトにつけている大きなコップを取って傾け、そこに大きなバッグに入れて運んでいる水を注いだ。ナタンはコップをもらい、水を全て飲み干した。
「これでは足りないのではないかと恐れています」ナタンは麦わら帽子の男にコップを返してそう言った。
「恐れというものは永遠に消し去るのです。かの自信というものをあなたの側におくことです。この地上でのあなたの使命を成し遂げる時まで」
「私の使命のことをもう少し話していただけませんか」
「私が言えるのは、旅をしている人が、旅の教訓を理解するとき私が現われるということだけです」
こう言って、男はコップをベルトに戻した。ナタンにあいさつをして再び歩き出した。空はだんだんと赤くなってきた。ナタンは陽が沈むのを見ようと砂丘に戻った。一番上に着くと、彼は映像の力に心を開いた。空腹を克服して、優れた意識の状態にいることに気がついた。今や簡単に集中することができ、彼をこれから待っている出来事を考えて力が抜けている感じがした。陽は沈み、砂丘は夕暮れ時の色に染まった。ナタンは自然が見せるその姿を自分の感情に結びつけた。彼は自分が太陽と完全に一体となっているだけでなく、全宇宙と完全に一体となっているのを感じた。宇宙にあるすべての要素がどうお互いに結びついているのかをより密に知覚していた。幸福感の絶頂にあって、彼は砂の上で眠りについた。しばらくして、ナタンは声を聞いた。
「ナタン、もう起きていいよ」
ナタンはその聞き覚えのあるような声が誰のものか、聞き分けようとした。月の光にその影が浮かび上がっていた。ナタンは自問した。これは夢か。また新たな影か。いつから彼はここに来ていたのか。夢を見ているのか、それとも本当に起こっていることなのか。その声がまた響いた。
「あなたは意識の世界に戻ってきたのよ」
ナタンはそれがサナだとわかった。砂丘の下に二人の男が見えた。よく見ると、ラシッドとラーセンだった。もう少し離れたところにバスが見えた。ヘッドライトが光っていた。サイードが運転席にいた。ナタンは立ち上がって、砂丘をサナと一緒に下りた。ウアラザザットまでの移動は静かだった。サナはナタンにパンとオリーブオイルをあげた。ナタンはそれを貪るように食べ、サナに笑いかけて頭を彼女の肩に置いた。数時間後、彼らはウアラザザットに到着した。ナタンは旅で疲れ果てて、すぐに眠りについた。
翌日の朝、ラーセンは朝食の時にナタンを起こした。他の人たちはテーブルを囲んで、熱いクレープが出され、蜂蜜がついているものもあれば、山羊のチーズがついているものもあった。ラシードは、砂漠での体験のことは何も語らないのが慣行だと言った。サナはナタンに、彼女は自分の使命を終えたので、カサブランカに戻るのだと告げた。海の近くにある家に住むという。彼女はナタンに、アドナンを呼んでそこで何日か過ごそうよと言った。朝食を終えると、三人の男はサナとナタンをバス停まで送って別れのあいさつをした。一人ずつお別れの言葉を託した。ラーセンが言った。
「旅を続けることだ。そしていろいろ経験するなかで、その話を人々に伝えて彼らに自信を持たせるのだ。そうすれば、彼らは自分の心の声を聴くことを学ぶだろう」
次にサイードが話した。
「旅を続けることだ。そしていろいろ経験するなかで、その話を人々に伝えて、彼らの想像力のなかに、創造の力をもたらすような何かを学ばせるのだ」
最後にラシッドが話した。
「旅を続けることだ。そしていろいろ経験するなかで、その話を人々に伝えて、彼らにインスピレーションを与えるのだ。そうすれば彼らは自分の人生の目的をより意識するようになるだろう」
ナタンは3人に心から礼を言って、別れのあいさつをした。そしてバスに乗ってサナの隣に座った。
「この旅の間であなたが学んだ一番の教訓はなに?」彼女が訊ねた。
「僕は今、自分の人生がどのように感情の性質に左右されるかが、これまでにないくらい理解できているよ。きみが僕にしてくれたことすべてにありがとうと言いたい」
「私のしたことはあなたのためにも自分自身のためにも意義のあることだったのよ」
正午に二人はカサブランカに着いた。そこからアンファという、住むのには快適な地区に近い海岸に赴いた。砂漠での経験を経て、ナタンは海にまた来れたことを喜んだ。彼はすぐに泳ぎに行った。以前と同じように、水の中は生き返るような理想的な場所だった。その間に、サナは家の鍵を取りに行った。ひとたび海の中に入ると、砂漠で経験したことがナタンの脳裏に蘇っていた。ベドウィンや人影、麦わら帽子の男との出会い。彼の前に現れた新しい映像、未知の場所の映像、知らない人々。それらの映像が繰り返し現れた。そんな見知らぬ人々の中に、彼にとってとても大切な人が見えた。ソフィだった。何をしているのだろうか。彼女が出てきたことをどう解釈すればいいのだろう。彼にとってどんな意味があるのだろう。少し経って、彼は海から上がって目でサナの姿を探した。少し離れたところに彼女は座っていて、読書に没頭していた。
サナはナタンに気がついて、ナタンをじっと見ていた。
「本当にあなたは水の中が好きなのね」彼女は言った。
「水の中に潜るのは、僕にとってはいつだって何だか家に帰ってくるようなものだね」ナタンが言った。
「素敵ね。アドナンと電話で話したの。あなたによろしく伝えてと言ってた。明日朝にはこっちに来るって」
「また会えるのが嬉しいよ」ナタンはそう答えた。
しばらく黙ったあと、ナタンはサナにこう言った。
「サナ、僕は現実の隠れた別の側面を知ってみたいよ」
「ひとたび精神世界に興味を持つと、その力は大きくなるばかりよ」
「ある世界が僕の前に現れてきた。その世界は人生の教訓をもっとたくさん秘めていると思うんだ」
「多くの古代文明はその知識の源泉を利用していたの」
「そのことを知れるだけ全部知りたいよ」
サナは笑顔でナタンを見た。
「それはいいことね。あなたの旅はまだ長いのよ」
そして二人はアンファの中心街まで歩いた。心地よい雰囲気が漂っていた。ナタンは海の中で見た新しい映像のことをまだ考えていた。特にソフィが出てきたことの解釈を探していた。その夜、ナタンは彼女に電話を掛けた。彼女が元気にしていることを知って嬉しく思った。ソフィは、引っ越して今はイエールという、トゥーロンから近い南フランスの小さな町に住んでいると言った。彼女はアーティストとしての活動に専念していた。彼女の彫刻が世界中でもフランス国内でも大きな成功を収めていた。それから彼女の作品が南アフリカ共和国のケープタウンでの展示会に招かれたの、と誇らしげに言った。もうすぐ現地に向かうのだという。ナタンにもぜひ会いたいと言った。ナタンは海で見た映像とソフィとを頭の中で結びつけ、海の中で受け取ったメッセージの意味を理解した。南アフリカが次の目的地だ!彼はソフィに泊まる場所の住所を訊いて、逢いに行くよと約束した。ソフィは狂喜した。ナタンはサナに南アフリカに行くと決めたことと、その訳を話した。サナはそれをとてもいい考えだと思った。
次の日、アドナンが到着して、三人でカサブランカの中心地を長い時間散歩した。アドナンはナタンの体験したことを知りたがった。ナタンはアドナンと離れてから起こったことを話した。
「砂漠がみんな決して一人じゃないことを教えてくれたんだね。君は今、みんな繋がっていることをより理解しているんだね」アドナンは言った。
「そうだよ」とナタンは答えた。「いいことだった。それ以来、僕はそれぞれの要素に意味を与えている一体感の中に自分の存在すべてを置きたいと、強く思うようになったんだ」
サナはそれまで何も言っていなかったが、会話に入ってきた。
「その強い思いが、生きていく一番の動機付けで、わたしたちが存在する究極の理由なのよ」
散歩を終えると、ナタンは南アフリカへの航空便を予約した。数日後、アドナンとサナは彼を空港まで送った。出発のとき、アドナンはナタンに、いつも創造の力を信じて、と言った。サナはナタンに、あなたは並外れたことができる人よと再び言った。ナタンはサナとアドナンに別れを告げた。太陽が遠い異国の地で輝いていた。