開始

 

 

ナタンはメキシコシティに着いた。通りはクリスマス直前の典型的な様子で、街はビル群のほのかな光で満ちていた。ナタンはタクシーに乗り、運転士にカタリナのダンス教室の住所を伝えた。道のりは長く、ナタンにとってこの新しい世界を観察する時間となった。ラテンアメリカ大陸に来たのはこれが最初だ。すぐに目を惹いたのは、混沌とした往来と走っている車の多さだった。周りのあちこちでクラクションの音や大きな声が聞こえた。やっとタクシーが着いたのはソカロという、メキシコシティの中心にある中央広場だった。運転士はナタンに、行こうとしている路地まで車で行くことは不可能だと言った。ナタンはその広場で降りなければならなかった。お金を払って、トランクから荷物を取り出した。
ソカロ広場で、ナタンはインディアン風の男を見かけた。灰色の長い髪でポニーテールをつくっていた。彼は椅子に座っていた。彼の前には男女が列を作って並んでいた。自分の番が来ると、その男が頭の上で小さなお香を揺り動かした。そして何か液体を髪に振りかけて、それから紙切れを渡した。男はナタンに気づき、一連の動作をしながら彼を見ていた。ナタンは少し歩いていたが、男が目で自分のことを追っているのに気がついた。ナタンはまだ歩き続けて、ついに立ち止まった。男が自分を見続けているので興味を持った。それにその変わった動作が何なのか知りたいと思った。ナタンは戻ってきて列に並んだ。しばらく自分の番まで待たなければならなかったが、おとなしく待っていた。そのインディアンは一言も声を発していないことに気づいたナタンは、男は口がきけないのだと思った。
自分の番になって、ナタンは男に言った。
「あなたのこの動作は何なのか訊ねようと思ったんですけど、あなたが話せないことに気付かなかったんです」
「どうしてそんなことを言うんだ」男が言った。
ナタンは勘違いをしたと思った。
「あなたが一言も発さなかったから…済みません」
「私がほとんど話さないのは、言葉の持ちうる効果を意識しているからだ」
「どうして今は話しているのですか」
「君は僕のところに来た。君は多くの人が失った何かによって行動していたからだ」
「どういうことですか」
「君をここに連れてきたのは好奇心だということだ」
「あなたがこうしてやっていることは何か知りたいのです」
「僕は多くの人が見落とすことがわかるから、人が僕のところにやってくるんだよ」
ナタンは警戒した。この男は人を騙しているだろうか、ナタンは考えた。
「他の人が見落とす何が見えるのですか」
「例えばほとんどの人が見えないものが見えるよ」
「何が見えますか」
「君が何か並外れたものを持っているのが見えるよ」
ナタンはインディアンを見た。また彼を並外れたものを持っているということを言う人が現れた…ナタンの警戒心は消えて、好奇心がいっそう膨らんだ。
「何が見えるのか、もっと詳しく教えてもらえませんか?」ナタンはインディアンに頼んだ。
男は時間をおいて、自分の見えるものを述べるのに相応しい言葉を選んだ。
「抵抗するものを吸収して、その形を変えて、方向を変えさせる能力のある流体の流れが見える」
「抵抗とはどういうもののことですか?」
「『推進する力』を制限するもののことだよ」
ナタンはこの男は世界を違った見方で見ることができる人だと分かった。その能力を発達させて、発見したことを伝えることによって、このインディアンは自分の人生に深い意味を見出したのだ。ナタンはもっと知りたいと思った。
「済みません、抵抗と『推進する力』を制限するものとは何かを教えていただけませんか」
「済みませんということはないよ。君の好奇心のおかげで、僕たちがこの時間を意義あるものにすることができるんだから」
男はまた時間をおいて、言わんとすることを明確に伝えようとした。明らかに、人生に対する彼の見方には見識の跡がみられ、そして、彼はソンゴのように、独特の表現を組み立てて伝えようとする。ナタンはこの出会いのおかげで、自分の成長に役立つ情報を彼から得られる、これまでの経験からそう分かった。
「その制限するものとは、僕たち一人ひとりがこの世に生まれて以来持っている、肉体的あるいは精神的な限界のことだ」
ナタンはそれが欠点や悪い習慣のことを言っているのだと理解した。推進する力のことも詳しく訊きたかった。
「『推進する力』とはどういうものか、訊いてもいいですか」
「『推進する力』はすべての活力の母、全てを消化する力のことだ」
「さっき話に出てきた「限界」が『推進する力』を循環させることを妨げているのですか」
男はそうだ、とうなずいた。
ナタンは話を整理しようとした。突然考えがはっきりした。この男が「推進する力」と呼ぶものは間違いなく父親の言うところの「内なる力」で、シモンの「優れた知識」、パブロの「驚くべき神秘」、アドナンの「創造の力」、ソンゴの「自然との調和」だった。
「僕が推進する力を巡らせる能力があるとお考えですか」
「みんなその能力を持って、ものごとを変えることができる。でも君が将来知識を十分得たときは、今まで見たこともない一番大きな変化を起こすだろう。君を並外れた人だと言ったのはそのためだ」
ナタンは今聴いた言葉の持つ大きな力を感じて、不思議な感情を覚えた。ナタンはこの男の言葉に心を打たれた訳ではないのに、彼の言葉が、サナの言葉やソンゴのそれと同じようにナタンの奥深くまで達した。ナタンは以前にも増して、深い意味を持つ言葉に気づくことができるようになったことを知った。『今まで見たこともない一番大きな変化…』その言葉を心に留めた。
「その言葉のことをよく考えておきます」
「メキシコでの滞在を楽しんで。きっと気に入るよ」
「どうしてそう断言できるのですか」
「ここまで君を連れてきた力は、すべての情熱をつかさどる力だからさ」
「どうもありがとう。あなたの言うことはすべて誠実なもので、僕にとって大きな意味を持つものとなるでしょう」
男はナタンに別れを告げ、ナタンは荷物を持った。後ろを振り向くと彼の後ろにはもう誰も並んでいる人が居なかった。
ナタンはタクシーの運転士が教えてくれた道を歩いた。また振り返ってあのインディアンを見ようとしたが、彼はもう居なかった。少し経って、ナタンはカタリナのダンス教室がある通りに辿り着いた。教室の名前が道路標識の柱に書いてあった。センティミエンタという名前だった。そこに示してある方向を辿ってその建物に近づいた。美しい正面のある古い建物だった。玄関と窓は明るい何色かの色で塗られていた。教室の名前が正面の一番上に書いてあった。ベルなどはなく、正面のドアが少し開いていた。ナタンはドアを開けて玄関のホールに着いた。その先には長い廊下が続いて大きな階段があった。
小さな女の子と男の子がとなり合っておとなしく階段の一番下の段のところに座っていた。5歳くらいの子どもたちだ。ナタンは二人にカタリナはどこに居るかと訊ねた。女の子のほうがカタリナはいないと答えた。ナタンは女の子が盲目だということに気づいた。ナタンは黙っている男の子に、もう一度カタリナの居場所を訊ねた。女の子が合図をして男の子は耳が聞こえないことを伝えた。突然、階上からタンゴの音楽が聞こえた。おそらく練習が始まったのだ。小さな女の子は男の子の腕をつまむと、男の子が素早く立ち上がった。男の子は女の子の方に腕を上品に伸ばし、女の子の手をつかんだ。女の子が立ち上がって、二人はダンスをする準備をした。二人は魔法にかけられたように、楽しそうにタンゴを踊り始めた。優しい気持ちで、ナタンはその様子を見つめていた。ハンディキャップをかかえているにもかかわらず、二人は素晴らしい自己表現の方法を見つけていたのだった。
家政婦が階段を降りてきた。ナタンは彼女にカタリナは居ませんかと訊ねた。彼女は、今朝カタリナは水中バレエのダンサーたちと一緒にプールに出かけたと答えた。家政婦は時計を見やって、戻るまでそれほど長くはかからないでしょうと言った。ナタンは礼を言うと、階段に腰を下ろして二人の子供を見た。二人はまだ踊っていた。音楽が止まると、二人は階段のナタンの近くに来て座った。ナタンは背中のリュックからワッフルの入った袋を取り出して二人にあげた。二人はいい笑顔でお礼を言った。ナタンも二人のダンスに対してお礼を言った。そのとき玄関が開いて、カタリナがホールに現れた。カタリナはナタンに再会できたことがいかにも嬉しそうだった。二人はハグをした。カタリナは来てくれてありがとうと言うと、ナタンがあの二人の子どもたちと仲良くなったことに気づいた。女の子はリサ、男の子はマヌエルというのよ、とナタンに教えた。そして、二人は路上生活をしていたけど、二年前から自分が面倒を見ているの、と言った。リサとマヌエルは違う地域に住んでいて、以前はお互いを知らなかった。彼らの話はもちろん悲しいものだったが、美しくもあった。カタリナは街から少し外に出たところの山でリサを見つけた。リサは一人で置き去りにされていた。カタリナは彼女をつかまえると両親が見つかるのを待った。同じ日に、カタリナの女友達がマヌエルを連れてカタリナの家に来た。友達はカタリナにマヌエルを孤児院に入れるまで二、三日預かって欲しいと言った。この男の子は長い間路上生活をしていて、病気をしているという。カタリナはこの二人の子供が同じ日に彼女の生活に現れたことを何かのサインだと考えた。この子供たちが孤児だと知ると、彼女は二人を養子とすることを決めた。それ以来、リサとマヌエルは離れられない関係になった。二人は平日ダンス教室でカタリナと泊まり、週末は彼女の住むプエブラという町に戻った。
カタリナはナタンに荷物を部屋に置くように言って、その後散歩をして町で夕食を食べようと提案した。二人の子供も連れていった。
ナタンとカタリナは公園の中を通った。公園は美しい彫像で飾られて、遊歩道の両側にはベンチが並んでいた。マヌエルとリサは手をつないで前を歩いていた。4人は大きな噴水の近くに来た。軽食を売っているお店があった。カタリナはオレンジジュースを4本とタコス、肉と野菜を詰めたコーンのガレットを頼んだ。
「リサとマヌエルの間柄はとても美しいね」ナタンは子供たちを見て言った。
「すべてのものには大きな美しさがある、でもそれに気づいている人はごく少ないのよ」
「あなたを待っている間、彼らがダンスをしているのを見ていたよ」
「ダンスの中に痛みを和らげる手段を見い出したのよ。二人は今やセンティミエンタの保護者よ」
「ねえ、センティミエンタとはあなたにとってどういう意味があるの」
カタリナは時間をおいてこう答えた。
「私が自己実現をして、自分の情熱と夢に生きることができる音楽堂なの。センティミエンタでは一人ひとりが自分を特別な存在と感じて、自分の夢がほとばしって実現するの」
「それがケープタウンでのダンスパフォーマンスで僕が見たものだね。夢の輝きがほとばしっていたよ」
「幸運にも素晴らしいグループをまとめることができた。彼らの中には生活に困難を抱えている人が多かったのよ」
「センティミエンタを創るという考えに至ったいきさつは?」
「私はいつも音楽と特別な関係があった、それで音楽に身を捧げる場所を作りたいと思ったの」
「特別な関係っていうと?」
「若い頃から、私は音楽を通して自分の本当の使命を見つけたとわかっていたの。うまく言えないけど、私の人生の中には音楽に関わるものがたくさんある」
「どうして音楽は僕たちの心の深いところに触れることができるんだろう」
「音楽は純粋で、おそらく誠実さだけにしか奏でることのできないものなの。嘘の入る場所がない、珍しいコミュニケーションの形ね」
「誠実さはどこかスピリチュアルなところがあるね」
「そうね。音楽はより高い目標を成し遂げる助けとなるの。平凡で陳腐なものから私たちを逃してくれて、すべてが繋がっていること教えてくれる」
カタリナはナタンが深く考えている様子に気づいた。
「インディアンの古い音楽にまつわる物語を話そうか?」カタリナはナタンに言った。
「うんお願い。物語にはたくさんの知恵が詰まっているから」
「こういう話があるの。大昔、音と語は一つで、同じ純粋なコミュニケーションの形だった。音楽と言葉は一つだった…ある日最初の嘘が語られるまでは。その時から、音楽は再び私たちを一つにしようと、私たちに純粋さと誠実さをもって表現させようとした」
「カタリナ、音楽はあなたにすばらしい伝道者の要素を見出したんだね」
リサとマヌエルはタコスを食べ終えて、近所の子供たちと遊びに行った。カタリナとナタンは話を続けた。
「インディアンの知恵の話だけど」ナタンが言った。「今日、僕はその生きた証拠を得たよ」
「今日?」
「そう、ソカロ広場で」
ナタンは年老いたインディアンとの会話のことを長々と話した。カタリナは驚いた様子で、その男の様子と、会った場所を正確に教えてほしいと頼んだ。ナタンがそれらを話すと、カタリナは先ほどよりは驚きの表情が和らいだ。
「他に誰かその会話に加わっていた?」
「僕の後ろには誰も並んでいなかったよ」
「あなたが彼のところに行くまで彼は何をしていたの?」
「小さなお香を揺り動かして、何か液体を人々に振りかけていたよ」
「他には何か見た?」
「今思い出した。みんなに紙切れを手渡していたよ。僕はもらわなかったけど」
カタリナの質問がナタンの興味を惹いた。
「どうして驚いた様子をしたの?」
「ナタン、私も話すことがあるの。かつて、あなたの見たその男のもとに頻繁に人々が相談しに来ていたの。ほとんど毎日ソカロ広場に居たけれど、一年前に急に居なくなってしまったの。今日あなたが彼を見たのは驚きよ」
「言えることは、今日彼は確かにその場所に居たということだよ」
「彼があなたに話したのは確かなの?」
「確かだよ。僕が見るに彼は本当に誠実な人だった」
「誠実なことは驚きじゃないけど、彼があなたに話したことは驚きよ」
「どういうこと?」
カタリナは両手でナタンの手をとった。
「よく聴いてナタン。彼に会いに行った人はすべて一人ひとりに合った知恵の言葉を書いた紙をもらうの。それはあの男は決して誰にも話さないからよ」
ナタンは黙ってカタリナを見た。
「ナタン、話したいことがあるの。まだ誰にも話していないことよ」
ナタンは熱心にその話に耳を傾けた。
「彼、ある日私にも話をしてきたの」
カタリナは大きく息を吸った。
「その日とても悪い知らせがブエノスアイレスから届いたの。私はアルゼンチンのその街で育ったんだけど」
「それはいつ?」
「3年前になる」
「何が起きたの?」
「養母が亡くなったと聞いたの。私はソカロ広場に歩いていったの。あなたと同じようによ。その男がこっちに来いと合図をしてきた。今でも彼の言ったことは完璧に覚えてる。『何も永遠のものはない。でも変化だけは永遠にある』」
二人とも考え込んで、自分たちが共に体験したことの説明を探していた。少し経って、ナタンが言った。
「僕も養子に迎えられたんだ。5歳の時だった」
カタリナとナタンは視線を交わした。このとき、カタリナはナタンを最初にケープタウンで見たときに感じたことを改めて確認した。長い沈黙の後、カタリナはこう言った。
「私たちお互いに何かを学ぶために出会ったんだと思う」
二人はリサとマヌエルを見ると、立ち上がって彼らのところに行き、ダンス教室まで一緒に帰った。道の途中、カタリナはずっと気になっていたことを訊ねた。
「ナタン、私は音楽以外の何に対してもこれほどエナジーとインスピレーションを見い出すことはないの。あなたは…」
ナタンはカタリナを止めて、両手を彼女の肩に置いた。
「カタリナ、あなたが音楽とともに見てきたものを、僕も自然のなかにある水の要素に見てきたんだよ」
カタリナは優しくナタンの顔を撫でた。
「そうなのね。あなたにとっては水なのね」
二人は再び歩き出した。
「あなたはベラクルスの海岸を気に入るはずよ。私の友達がそこに家を持ってるの。よくそこに行くのよ。リサとマヌエルは水が好きなの」
それからの数日、ナタンはダンス教室での日々の活動に参加した。先生たちは違ったスタイルを教えた。ナタンはいくつかのレッスンを受けて多くの人と友達になった。メキシコでのはじめの数日間は素晴らしいものだった。ナタンはカタリナを少し姉のように感じていた。お互いに相手から多くのことを学んだ。ナタンはマヌエルとリサと同じ部屋に寝泊まりした。二人の子供たちはナタンによくなついた。ナタンは二人に毎晩本を読んで聞かせるようになった。二人はその時間を楽しみにしていた。毎回そんな同じ儀式が繰り広げられた。
金曜日のある日、カタリナ、リサ、マヌエルとナタンはプエブラの家に向かって出発した。天使の町といわれるところである。一週間するとまたダンス教室に戻らなければならない。カタリナと子供たちはプエブラの中心地に近いところに住んでいた。古くて居心地の良い家だった。軽い食事をとった後、カタリナはナタンに街の中心部を見せてまわった。プエブラは天使の町としてだけではなく、大勢のアーティストが住む町としても知られていた。ナタンは、大きなヤシの木と彫像がある美しい場所がとても気に入った。様々なものが台に並べられて売られていた。ファイアンスで美しく装飾されている、植民地時代からの多くの家々にも感銘を受けた。