静寂

 

 

あるインディアンの村で、ナタンはそこの住人たちが、『完璧な記憶』を持つあるインディアンの賢者について話しているのを聞いた。彼らによると、その賢者は深遠な知識を持つ、この世で類まれな人のひとりだという。ナタンはその人についてもっと詳しく知り、彼の持つ知恵を得たいと思った。その男はとても控えめで、慎ましく生活しているという。外見では特に目立つところがないらしい。ナタンがどこに行けば彼に会えるか訊ねると、彼に会うためには高地に行かなければならないという。その賢者を村人たちがどう呼んでいるか、それを聞いてナタンは驚いた。彼は『それを知る者』と呼ばれていたのだ。グラナダのジプシーと同じ名前だ。ナタンは興味を持ち、またもや重要なことを学ぶことになるのだろうかと考えた。ナタンは溢れんばかりの好奇心を持って、高地にある村へと向かった。
次の村で、ナタンは別の情報を得た。村人のなかでその賢者に会った者がいて、その時賢者からはとてつもない自信がみなぎっていたと言った。その知性の面では誰も彼の足元にも及ばないという。そのインディアンの老人は名を知られようとすることは決して何もせず、名声を嫌い、名誉を求めなかった。どんな人間の栄誉にも価値を認めていなかったのだ。
ますます興味を惹かれたナタンは、そのインディアンの賢者にはどうしたら会えるかと訊いた。ここでも、さらに山を登って『それを知る者』のことを訊ねなさいと言われた。ナタンが最も重要な情報を得たのは、さらに高地に向かい、グアテマラとの国境付近にあるさらにへんぴな場所にある村でのことだった。村の住人たちはその賢者がこの世で最も強い力に秩序を与えることができうる、と断言した。ナタンがその彼に会うためにはるばる来たことを伝えると、住人は、彼に会うことができる特権を持っているのはほんの数人だと告げた。ナタンはその村に部屋を借り、住人たちに自分が賢者を探していることをみんなに伝えてほしいと頼んだ。
数日後のある朝、ナタンは背丈の低く頬が赤褐色の年老いたインディアンの女に起こされた。彼女は言葉を発さず、ナタンを優しい笑顔で見ていた。ナタンは彼女もまた口がきけないに違いないと思った。ナタンは昼食を作り、二人で一緒に食事をした。インディアンの女はナタンの目に視線を投じた。突然、彼女はスペイン語で彼に向かって話し始めた。
「あなたは『それを知る者』に会いたいそうね」
ナタンはそれを聞いて驚いた。
「そうです、その通りです」
「その動機を知るため私はここに来たの」
「そのインディアンの賢者は神秘的な知識を持ち合わせていると聞いたもので」
「『それを知る者』は確かに深遠な知識を持っているけれど、彼はそれを秘密にしているのよ」
「どうしてですか」
「その知識は調和と純粋さの中で生きている者たちだけに明かされるものだから」
「その知識がそれほど価値のあるものならば、みんなに明かされるべきではないですか?」
「そうではありません。というのはその知識が、ある力を与える不思議な自然界の法則にかかわる情報を含んでいるから。悪意を持った者の手に渡ることは危険なことでしょう」
「危険?なぜですか」
「人が十分に調和のとれていない状態で、純粋さを持っていなければ、その知識は人の頭の中で自由になり、知識ある者の導きが無いままでは、その強大な力につぶされてしまう恐れがあるからよ」
「その深遠な知識を僕が特別に教えてもらう権利はあると思いますか」
「深遠な知識は特別に教えてもらえることは決してないの」
ナタンは少し考えて、別の問いを投げかけた。
「僕の一生は、十分調和がとれていて純粋さがあって、深遠な知識を得るにふさわしいでしょうか?」
インディアンの女はナタンの手をとって言った。
「もしあなたの持つ『推進する力』があなたを今日ここに連れてきたのならば、それはあなたが深遠な知識を受け取る用意ができているということよ。数日のうちに、賢者のところに連れて行ってあげましょう」
インディアンの女はナタンに別れを告げて村を出た。彼女が数日後に約束通りやって来た。ナタンは荷物の準備を終えていた。二人は朝食を一緒に摂り、食べ物を持って出発した。二人は山をさらに登る道を辿った。景色がとても美しかった。道の途中で、ナタンは彼女が初めて彼のところに来た時から訊きたかったことを訊ねた。
「もし深遠な知識がある力を与えて、間違った使い方をされる危険があるなら、どう深遠な知識を守るのでしょう」
「賢者だけがその象徴言語にアクセスできて、その知識にうまく同化できるの。そうしてその知識が蓄積されて、安全に伝えられるのよ」
「象徴言語とは何ですか」
「人類最古の言語のことです。深遠な知識は、その言語を通じて今日までこの世の賢者たちの間に伝えられたの」
「象徴言語というと、どういうものを思い描けばいいでしょうか」
「その起源は、単語や話し言葉がまだ存在していなかったときにさかのぼるのよ」
「もし話し言葉がまだ存在していなかったら、どうやってその知識が『完璧な記憶』として記録できたのですか」
「『完璧な記憶』?」インディアンの女は訊き返した。明らかにナタンの言わんとしていることが分からない様子だった。
「そうです。村の住人たちが話していた記憶のことです」
「記憶?でもその象徴言語にアクセスできるのは意識的な知性ではなくて、無意識のなかのものなのよ」
ナタンはそれを聞いて考えた。女はナタンが考えている様子を見せていることに気づいて沈黙した。それからナタンがこう訊ねた。
「ということは、優れた知識は、無意識の中にある象徴の記号によって理解されるのですか?」
「知性だけでは人間は自分の存在を理解できない。だから自分の無意識を呼び覚ます必要があるの」
ここでナタンは、記述された記憶というものはないことを理解した。多くの人は幻想だけを本物だとみなす。深遠な知識は常に無意識の象徴を通して伝えられる。こうして、その知識は邪(よこしま)な者の手に落ちる危険がないのだ。ナタンはその言語を司る人々が世界中にいるのだと考えた。深遠な知識の言語を知る者は誰でも賢者だと考えられる。そうした人々は別の生き方をしていて、ある力を授かっている…アンダルシアで会ったジプシーはその一人だ。
「その象徴言語がどんなふうに読み取られるかもご存じですか」ナタンはインディアンの女に訊ねた。
「人間が存在する太古の時代に出てきて、私たちの内なる存在に直接話しかけていたの。夢や幻影に自然に現れてくる映像のことよ」
そうする間に、二人は高地に着いて、厚い層になった霧のなかに入った。突然その霧が消えた。インディアンの女は、自分たちが雲を抜けて世界の屋根までたどり着いたのだと言った。ナタンは足を止めて、頂上から遠くに広がる素晴らしい眺めを楽しんでいた。前にはグアテマラの火山であるタフムルコ火山が見える。午後の終りに、二人は石造の小さな家に着いた。中に入って荷物を下ろした。中には人は誰も居なかった。インディアンの女はサンドウィッチとお茶を用意した。
「ここは賢者の住む家ですか」ナタンが訊ねた。
「ここに彼は住んでいる。毎朝、菜園で働いているの。そろそろ日課が終わる頃で、戻ってくるまでそれほど長くはかからないでしょう」
少し経って、インディアンの賢者が玄関に現れて、二人に挨拶をした。ほっそりとしているが、その姿は力強かった。ボンネット帽を被っていて、両肩にはベージュのポンチョがかかっていた。インディアンの女がお茶を三つのカップに入れた。一つを賢者に、もう一つをナタンに渡して最後に自分の分を取った。彼女は賢者とインディアンの言葉で少し会話をしてから、ナタンにスペイン語でこう言った。
「少し休んで、それから山のほうに行きましょう。火山の頂上からは恍惚の炎が見るものを圧倒するのよ」
「恍惚の炎ですか」
「恍惚の炎は、想像力が生むものすべてに形を与えるの。その炎を見ると、すべての夢、すべての幻影を意識的に見ることができるようになる」
「幻影は象徴記号で見ることができるようになりますか」
「賢者のみが深遠な知識の言語を知っている。ただその人を見るだけで、その人だけの使命を知ることができるようになるの」
ナタンは、以前にも賢者に出会っていることに気がついた。アジアを旅していたときのことだ。
「何が見えるようになりますか」
「あなた自身の使命にまつわる幻影が見えるようになるのよ」
「その幻影は映像の形であらわれてきますか」
インディアンの女がうなずいてこう言った。
「瞑想をした後、その映像が真の使命を遂行するために使われる力を示してくれるの」
ナタンは、自分自身が持つ使命のことをもっと知りたいと思っている一方で、それに対するはっきりした答えをまだ見つけられていないことに気がついた。インディアンの賢者はそのことについて何か教えてくれるのだろうか。
「賢者に、僕はいつどこで並外れたことを成し遂げるのか、訊いてもらえませんか」ナタンはインディアンの女に頼んだ。
彼女は賢者と少し言葉を交わし、それからまたナタンの方を向いて言った。
「あなたはいつでも必要な知識を使うことができていた。安心しなさい。これからもそれは変わらない」
インディアンの女は賢者とまた話した。彼女はとても感激した様子で、ナタンの方を振り返ってこう言った。
「恍惚の炎の儀式の間に必要な知識を受け取るため、これからあなたのために必要な基本原則を挙げていきます」
「賢者は正確にどんな知識が僕に必要なのかをお分かりなのですか」
「『それを知る者』は真の使命をすべて知っているのよ」
ナタンは背負っているリュックサックからメモを取り出した。サハラ砂漠に行く前にイニシエーションを受けたときと同じような興奮を覚えていた。インディアンの賢者が話して、その言葉をインディアンの女が訳した。
「最初の原則です。この世には普遍的な活力が存在し、それをもってすべての人々は生を経験することができる。ですから他の生き物を自分たちの一部をなしている存在として大切にするべきだということを知りなさい」
ナタンは賢者の言葉を細かくすべて書き留めていた。
「二つ目の原則はこうです。一人ひとりの中には、最初の原則を思い出させる魔法の力が眠っている。その力が意識です。全く純粋にそれを経験するためには、外部からくる影響から逃れ、恍惚の炎の幻影のみに導かれるままになる必要があります」
ナタンは一語一句を書き留めていった。
「三つ目の原則はこうです。純粋な知識をどのように自分のなかに見いだすか、世界に存在するただ一つの悪をどのように振り払うかを知りなさい」
「ただ一つの悪?」ナタンは訊ねた。
「世界にはたった一つの悪がある。それは無知です!」
インディアンの賢者は続けた。
「賢者が他に質問はあるかと訊いているけど」
ナタンは少し時間をとって考えた。
「僕が推進する力を感じるようになるか、訊いていただけますか」
ナタンの質問を聴きながら、インディアンの賢者はナタンの方を向いて言った。
「推進する力はどこにでも存在していて、すべての生の形の中に宿っている」
ナタンはすべてはっきりと理解した。それから彼らは出発する準備をした。ナタンは行き先を訊いた。女はグアテマラの国境を超えてタフムルコの頂上に行くのだと答えた。
山登りは困難なものだった。ナタンは交互に寒く感じたり暑く感じたりした。風が吹くと、一行は持ってきた毛布で体を包んだ。ナタンは同行の二人の体力と我慢強さに驚いた。目的地に着くと、彼らはあぐらをかいて座った。少し経ってインディアンの賢者が立ち上がって木を集めだした。ナタンとインディアンの女も手伝った。木は投げ集められ山積みにされて、十分に集まると彼らは再び座った。インディアンの女が、今度は太陽が沈むのを待っているのと説明した。夜になり始める頃、賢者が火をおこした。ひとたび十分に点火すると、賢者はそこに香りのある植物を投じて、それから火の反対側に行ってそこに座り、ナタンと向かいあった。火と草の香り、それと疲れた体が、ナタンをサハラ砂漠にいた時と同じような状態に置いた。インディアンの賢者が彼に話しかけた。彼女がまたそれを訳した。
「静寂を感じ、隠されたメッセージを自分の中に集めなさい」
風がとても強くなってきた。炎は強くなり、強い熱を発して草の匂いを放っていた。ナタンにとって静寂を感じるのは難しいことではなかった。隠されたメッセージを探すことに集中した。しばらくして、奇妙なことが起こった。炎のなかに水の雫が滴り落ちるのを見て、視線を上にやると、とてつもなく高い滝があるのが見えた。水は竜巻から落ちていて炎に流れそして山に落ちていった。絶え間なく水が落ちている。少しした後、ナタンはまた印象的なものに気づいた。水がとても強い力を持って山に落ち、水が跳ね上がって山の頂上が隠れた。面白いことに、炎は水のなかでも燃え続けていた。そして、滝の水が尽きてついには完全に消えてしまった。風は止み、静寂が再び訪れた。賢者は立ち上がり、ナタンの前に座った。両手をナタンの顔の前に置いて、その手をしばらくその場所に保ったあと手を引いた。ナタンはまるで今目が覚めたかのようにあたりを見回した。そこには水の跡形もなく、炎は普通に燃えていた。全てが元に戻っていた。
賢者は彼女にこう言った。
「恍惚の炎が、彼にとても力強いメッセージを送った」
ナタンは気力を回復する必要があった。ほとんど話すこともできなかった。インディアンの女がナタンに毛布を持ってきた。彼を寝かせて毛布を掛け、一言こう言った。
「静寂を自分の中に守りなさい」
翌朝、彼女はナタンを起こした。賢者はもう居なかった。
「目がすっかり覚めたら、食事をして、それから村に戻りましょう」
二人は静かに食事をして、それから帰路についた。ナタンは目が覚めてからまだ何も話していない。インディアンの女が言った。
「昨日あなたが見たものが、明らかにあなたの中に強い印象を残しているようね」
「あなたも僕と同じものを見ていましたか」
「私はただ静寂を感じていただけよ。でも恍惚の炎が、あなたを自分のなかにある自然の要素とコンタクトさせたことはわかっていた」
「見たものを表現しがたいです。まず深い静寂を聴いて、そしてその幻影を見たのです」
「自然の要素がメッセージを伝えるのは、いつも静寂から始まるの」
「本当に素晴らしいものだった」
「これから先は、あなたの創造するものすべてに、あなたは自然の要素とコンタクトしたことを思い出すでしょう」
ナタンとインディアンの女は村に戻った。また長い道のりだった。その次の朝、インディアンの女はナタンに別れを告げた。ナタンがお礼を言うと、彼女はこう言った。
「お礼を言うのは私の方よ。あなたは私の使命を手助けしてくれた」
「あなたの使命は何ですか?」
「並外れた者たちに宿る直観を強くしたいという望みを持って生まれてきたのよ」
この言葉でナタンは、彼女もまた賢者であることを知った、ちょうどサラのように。
「ありがとう。これで直観が知識よりも大切だということを学びました」
二人は抱き合い、幸運を祈った。翌日、ナタンは旅に戻った。チアパス州を出てオアハカ州の方向に向かった。彼はプエルトアンヘルに着いた。太平洋沿岸の穏やかな場所だ。ナタンは雰囲気が気に入って、そこに滞在することにした。丘にあるキャンプ場の小屋に泊まることにした。空気がよくて、海の素晴らしい景色が望めた、毎日、太陽が昇る時と沈む時に、彼は海岸に行って最近起こった出来事について考えていた。
プエルトアンヘルでの滞在中、ナタンは考えを整理しようとした。たくさんのことを考えた。強い海の波を見て、恍惚の炎のことを思い出した。炎の荒々しさは彼に表現し難いような印象を残した。炎は自然の力を象徴していて、推進する力に刺激されるままになっているときにできることを見せてくれた。ナタンは二つの大きな発見をした。まず、人の引き起こす大きな変化の前には夢や幻影が先立つということに気づいた。次に、大きな行いは想像力から生まれることを理解した。そのときから、ナタンは途切れることのない平和な感情を覚えていた。自分の使命を成功させるために、自分は必要な情報をいつも相応しい時に使える、そう深く信じた。心が楽になって、揺るぎない自信を持って将来に向きあうことができるようになった。創造の力は常によい選択をする手助けとなることを理解していた。今や焦りや欲望を感じることなく、周りのものに感嘆することができるようになった。面白いことに、彼は努力をせずにその状態にたどり着いた。彼は自分の成長のための大きな一歩をいま踏み出したのだ。
ある日、ナタンは砂浜にサーファーの集団を見かけた。それ自体は不思議なことではなかったが、シエスタの時間で太陽が暑く照りつけていて、砂浜には彼ら以外に誰もいなかった。ナタンは、彼らは観光客に違いない、肌も褐色ではないし、メキシコ人ではなさそうだ、と思った。小さい頃から、ナタンは状況が許せば午後シエスタをとることを習慣にしていた。自分のいぐさのマットを持ち出して海岸に沿って植えられた木の陰で横になった。サーファーたちを見ながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
眠ってしまったという頃、彼ははっとして目が覚めた。悪い夢を見ていた。起き上がってその夢を思い出そうとした。夢の中でナタンは水の中に潜っていた。彼の上には二つの物体が浮かんでいた。それには注意を向けずに泳ぎ続けた。突然、若い男が海の深いところまで沈んでいくのが見えた。彼は意識がないようだ。その夢で、ナタンは彼のところまで泳いで行こうとしたが、前に進むことができない。いくら精一杯泳いでも、その溺れている人に近づくことができなかった。夢をみている間ナタンを襲った感情が激しく、目が覚めてしまった。ナタンはその悪夢が持つ意味を理解しようとした。次の大きな波が来るのを待っているサーファーたちを眺めながら、ナタンは悪夢との関係を探った。もしかするとあのサーファーたちの中の一人を夢で見たのかもしれない。ナタンはその集団をじっと見ていた。立ち上がって海に向かって歩き、夢との関係がそんなに遠くないところに見つかるかと考えた。ナタンはサーファーたちの近くで泳ぐことにした。こう自問自答してみた。幻影は見えたか。明確なメッセージを受け取ることができているか。それは出来事が起こる前に彼が予見できることを意味する。そうした出来事の経過に影響力を持つことはできるだろうか。ある考えが彼を落ち着かせた。『時間がきっと答えを与えてくれるだろう』。ナタンはサーファーたちがアメリカのアクセントで英語を話しているのが聞こえた。アクロバティックなことをしているのを見て、ナタンは不安になった。彼らは波の力を十分認識しているのだろうか。彼らが波から砂浜に戻ったときだけナタンは安心した。ナタンは彼らが全員海から上がるまで注意して見ていた。また自問自答してみた。自分は過剰反応しているのか。今自分ができる最善のことは何だろう。自分の直観を信じて、その直観があの夢はただの夢でないと言っているのに、その考えに対する疑いが消えない。ナタンはサーファーと知り合いになることにした。そうすればちょっとした危険を予知するかもしれない。彼らの方に近づいていって、挨拶をした。若者たちは7人組で、若い女性が4人、若い男性が3人いた。カリフォルニアから来ていて、みんなとても感じの良い人々だった。彼らはナタンに一緒に座ろうと誘った。
座ったとき、ナタンはビーチタオルの上に置いてある一冊の本に目が留まった。講義録のコピーのようだった。分厚いカバーには、こんな引用があった。『われわれは宇宙の一部分をなしてきたこと、宇宙はわれわれのなかにあること、このことを再発見するためにわれわれはここにいる』ナタンは注目すべき一文だと思った。ナタンは本の持ち主は誰かと訊ねた。
「これは私のよ」デボラが答えた。「超自然的現象の解釈に関しての本なの」
「具体的には自然のどういう事象にかかわること?」ナタンが訊ねた。
「理性と精神世界との間にある密接な関係を説明しているの」
ナタンはこれ以上ないよい話題だと思い、デボラとナイジェル、ジェニファーと少し話した。デボラとナイジェルはサンフランシスコで勉強をしていて、ジェニファーは美術学校に通っているということだった。デボラとナイジェルは、ジェニファーはものすごく才能があると言った。彼女は素晴らしい絵を描き、彼女の絵は何度か展覧会に出展され、成功を収めたという。他の4人、ジョン、セス、キャロル、スーザンは散歩に出かけていった。
デボラ、ジェニファー、ナイジェルとナタンは、精神世界の科学的な側面について話を続けた。この会話はナタンにとって心を豊かにするものだった。確かにその現象を知っていたが、これはその合理的な説明だ。それでも、神秘の知識の科学的な側面を学ぶことは理論的すぎないかとナタンは考えた。彼らの議論は机上の知識のように思われた。彼ら若者は自分の行っていることを本当に理解しているのかとも考えた。本物の精神世界と作り事との違いを見分けられるのだろうか。ナタンがそのことを彼らに訊ねると、ナイジェルが、教授は実践から導かれた例をしばしば使って講義していると答えた。デボラは、教授はナタンと同じことを考えていて、理論的すぎないやり方でその話を取り扱っていると付け加えた。彼女は、講義が具体例をたくさん出していることを話すと、ナタンは興味を惹かれた。もっと詳しく訊きたいと思ったが、質問をしようとしたとき4人が散歩から帰ってきた。キャロルとスーザンが横になり、ジョンとセスはサーフィンをしようと自分たちのボードを手にとった。ナタンはその様子を見て、自分が彼らのところに来た目的を思い出した。
ナタンは何かしなければと思った。
「よくここにサーフィンをしにくるの?」ナタンは彼らに訊いた。
「プエルトアンヘルに来るのは初めてだよ」ナイジェルが言った。
「サーフィンの経験は長いの?」
「みんな何年か前からサーフィンをやってるよ」キャロルが答えた。
「どうしてそんなことを訊くの?」デボラが訊ねた。
ナタンは直接それには答えなかった。立ち上がった。海を見ながら重い調子でこう言った。
「海にあるのは謎ばかりだからさ」
この言葉のあとに、静寂が訪れた。若者たちは誰も反応しなかった。まるで今、彼らの一人ひとりもまた何かを予感しているかのようだった。一時的な印象だったが、ナタンはそれを意識し、現実の幻影を受け取ることができた。彼はジョンとセスを目で追い続けた。彼らは明らかにサーフィンを楽しんでいる様子で、いろいろなポーズを試していた。一方海はだんだんうねりが強くなっていった。サーファー二人から目を離すことなく、ナタンはゆっくりと海のへりまで歩いていった。海の水が彼の足を浸したとき、風が突然激しくなり、ナタンは奇妙な感情を覚え、警戒心を刺激された。言葉で説明することができなかったが、風が彼に海に潜るように命令したような印象を受けた。他の人々には何も言わず、サーファー二人のいる方に向かって泳ぎ始めた。風はますます強くなり、波が高くなってきた。ナタンの不安は大きくなるばかりだった。ジョンのいるところに着いたとき、ナタンはセスを見失っていた。ジョンに叫んだ。『セスはどこ?』仲間の行方がわからなくなってしまったのではないかという考えに怯えて、ジョンは後ろを振り返り、自分の周りを探したが、セスの姿は見当たらない。ジョンはナタンに、セスの居場所がわからないと合図をした。二人は突然セスのサーフボードを見つけた。だがセスの姿は見えない。ナタンが海に入ったときに覚えた悪い予感は最高潮に達した。ナタンは迷うことなくセスを探しに海の中へ潜った。少し時間が経って、ようやくセスを見つけた。セスは意識がなく、頭が後方に傾いていて、口が開いている。ナタンの悪夢はこれと全く同じ映像を持っていた。でも現実は夢の中で起こったこととは違い、ナタンは溺れた人のところに行くことができた。速く泳いでセスのところまでたどり着き、彼をつかまえて水上まで連れてきた。
陸まで上がる途中、ナタンは夢の中で見たことばかり思い出していた。浮かんでいた物体はセスのサーフボードだった。すぐ横にはジョンのものがあった。ジョンはセスとナタンの姿を探していた。ナタンは二つのサーフボードの間から海の上に出てきた。ジョンは二人を見て安心したが、セスの意識がないとわかるとパニックに陥った。ナタンはジョンに頼んで、セスをボードの上に載せ、海から上げるのを手伝ってもらった。砂浜からは、集団の他の若者たちがすべてを見ていた。彼らは泳いで進み、高い波を超えてナタンのところに来た。そしてセスを砂浜まで連れて行き砂の上に寝かせた。スーザンはすぐに蘇生させるための処置を始めた。若者たちは膝をついて彼の周りを囲み、最悪の事態を恐れた。ナタンはセスの頭を支えていた。セスはまだ意識がない。風は相変わらず強く、砂を巻き上げていた。不安な時間が続いた。突然、セスが激しい咳を繰り返し、肺の中の水を外に出した。助かったのだ。仲間たちは安堵のため息をついて、そのとき不思議なことに風が徐々に静かになっていった。ナタンは砂の上に寝転がり空を仰いだ。疲れきっていた。すべてがあっという間に過ぎていった。呼吸を整えて、今起こったことを整理する時間が必要だった。しかしそれほどの時間はなかった。みんながナタンに熱っぽく感謝の言葉を言ったのだ。若者たちは、ナタンがどうしてちょうどあのとき海に入っていったのか不思議に思っていた。彼らはまた、急に嵐が来たことについても話していた。偶然だと言う者もいれば、奇跡だと言う者もいた。デボラは、明らかにこのことを偶然だとは考えていなかった。ナタンがひとりになるのを待って、彼女はナタンの横に座った。デボラはナタンを見てセスを助けてくれたお礼にと言って額にキスをした。
彼女は水平線を眺めながら、静かに話し始めた。
「あのとき、あなたは偶然立ち上がって海に向かったのではないはずよ」
ナタンは顔を彼女の方に向けて、何も言わずに彼女を見ていた。デボラはまだ海を見ていた。
「私たちのところに話しかけに来たのも偶然ではないはずよ」
しばらく沈黙の時間があったのち、ナタンはこう答えた。
「明らかにきみは多くのことを見抜いているね」
そのときセスが加わってきた。ナタンのとなりで砂の上に膝をついて座った。
「君のおかげで、まだ生きていられるよ」
セスとナタンは抱き合った。
「君がまだこの世にいるのは、まだその時が来ていないということなんだよ」ナタンが言った。
他の若者たちもそこに加わった。
「そう、でも助けてくれたのは君だ」セスが言った。
「僕だけじゃない。一緒に君の命を助けたんだ」
「何とお礼を言っていいかわからないよ」
「ちょっと考えがあるよ」ナタンが言った。
みんな興味深くナタンの考えを待っていた。
「今日から君は、残りの人生を定期的に、ここにいる君の友達一人ひとりの近況を聞いて過ごすんだ。助けが必要なときは、その人を助けてあげるんだ」
「とてもいい提案ね」キャロルが言った。
「君の意見に賛成だよ」セスはそう言って立ち上がった。
「みんな今日から、僕のことを無条件に当てにしていいよ。ここに約束するよ」
みんなはセスにお礼を言って、それから、今後一生ここにいるみんなを助けて行く義務があるんだよといってセスをからかった。セスは少し口うるさいところがあると思われているらしかった。でも今は幸せで安らかな雰囲気に包まれていた。若者たちはその夜バーベキューをすることにした。もちろん、ナタンもそれに加わることにした。みんなはプエルトエスコンディードに向かう途中の小さいとなり村に、休暇のための別荘を借りていた。デボラはナタンに迎えに行くよと言った。ナタンは自分の平屋に戻り、シャワーを浴びてから少し休んだ。夜になって、デボラが一人で迎えに来た。ナタンは扉を開けて、バスルームで支度を済ませた。
デボラは小さな部屋に座った。
「少しは休めた?」彼女はナタンにそう訊いた。
「うん、ありがとう。きみは?」
「ううん、さっきの出来事のことをずっと考えてて」
ナタンはやっぱり、と思った。デボラは先ほどの出来事にとても興味を持っていた。彼女がやって来たのはただ迎えに来るためだけでなく、あの出来事に関してナタンからもっと話を聞くためだった。
「何が知りたいの」ナタンは訊ねた。
「どうしてあの事故が起きるとわかったの?」
少しの間沈黙が訪れた。
「予感がしたんだ」
「いつその予感がしたの?風が激しくなったとき?セスとジョンが海に戻って行ったとき?私たちと話そうとしてこっちに来たとき?私たちの近くまで泳ぎに来たとき?それとも…」
「…それとももっと前かな?」ナタンが言った。
ナタンはバスルームを出て、デボラの隣に座った。
「ナタン、私にとってそれを知ることは大事なことなの」デボラが言った。
「どうして?」
「小さな頃から、私ほとんどの人が知らない不思議な世界があるって解ってたの」
「不思議な世界?」
「うん、隠された世界って言うのかな」
「デボラ、人は隠された世界と接触するために生きているわけじゃないんだ。本当の自分自身になるために生きているんだ」
デボラは、こういうことには簡単に答えることはできないと分かっていた。しばらく考えた。
「本当の自分自身になるためには、どうしたらいいのかな」
「他人を観察して、彼らの声を聴いて、彼らを見抜くんだ。そうすることで、探している真実がきみの前に現れてくるんだ」
「誰が真実を言っているのか、どうすれば分かるの」
「真実を見つけたと言う人々を探すんじゃなくて、真実を探している人々に学ぶんだ」
「ナタン、変に聞こえるかもしれないけど、私いま特別な人に出会ってると分かるの。これは私の第六感なんだけど…」
彼女はナタンの眼の奥を見た。
「あなたは特別な人よ。私分かるの。あなたほどの特別な人にはめったにお目にかかれない」
ナタンは少しの間黙り、そして、彼らのところに行く前、自分の見た幻影のことをデボラに話すことにした。
その話を聞いたデボラはとても心を打たれた。ナタンに今までも前兆を知らせる夢を見たことがあるのかと訊ねた。ナタンはインディアンの賢者との体験を話した。デボラは強く興味を惹かれていた。
「そういう出来事は精神的な意義があるの?」デボラは訊ねた。
「すべての出来事は常に精神的な意義を持っているよ」ナタンは答えた。
ナタンとデボラは待っていた他の仲間に合流した。彼らは楽しい夜を過ごした。一人ひとりが、一緒に過ごす楽しい時間を最後のひとときまで味わった。次の日に彼らは出発する予定だった。休暇のときが終わり、若者たちは帰りの支度をした。ナタンに別れを告げるときに、彼らはナタンと連絡をとり続けると約束した。ナタンはプエルトアンヘルにもう何日か滞在して、カタリナのいるメキシコシティに戻った。